23歳。東京でずっと過ごすと思っていた。
尾岱沼の旅館「うたせ屋」で女将をやっております、戸田邑江(くにえ)と申します。昭和20年3月3日生まれで出身は東京の青梅市です。邑江の「邑」という字は「むら」と読むのが本来なのですが、両親が「国のように大きな人間になりなさい」との思いを込めて「くに」と読むように字を当てました。
別海町には23歳の時に移住してきました。家族は主人と息子一人、娘一人。主人は知り合った頃東京の大学生で、私の職場の人間を通じて知り合って結婚しました。結婚当初は東京で暮らしていて、息子もその頃に生まれました。息子は東京の高校に入学して寮生活を送ったあと、某有名食品会社に就職し現在は執行役員として働いております。偉くなったもんですよ本当に(笑)。娘は別海に来てからできた子供で、いまは札幌に嫁いでいます。
主人の実家は漁師と旅館経営を生業としておりましたが、次男坊ですし家業は義兄夫婦が継いで、私たちは東京で暮らしていくものだと思っていたんです。主人もそのつもりで、日本橋のそれなりに名の通った会社で働き、私は東京駅八重洲口の「大丸」で高校卒業後から正社員として働いておりましたから。
結婚式を挙げるときに義父母が東京に来て顔を合わせた形でしたので、婚前挨拶でも別海町には来ておりませんでした。まさか自分が北海道に住むなんて夢にも思っていませんでしたが、息子が1歳とちょっとになったばかりという時に、意外な展開で別海町へ移住することとなったんです。
思いもよらない移住先。別海町ってどこ・・・?
ことの発端は漁師職ではなく旅館の方だったんです。漁師職の方はやはり長男の義兄が継ぎ結婚もされましたが、「戸田旅館」(当時)は代々女性が切り盛りしてきたので義兄のお嫁さんが引き継ぐ予定だったんですよ。ですがきっと踏ん切りがつかなったんでしょうね。それで私達が継ぐという話になりまして。
私にとっては青天の霹靂で、北海道はおろか別海町に住むことになるとは想像してなかったものですから「別海町ってどこ?せめて札幌、釧路だったらな……」と思ってたものです(笑)。でも嫁いだ人間が「嫌だ」なんて言える話じゃないでしょう?
でも、「別海へ帰る」と主人に急に言われたわけではないんです。義父母が何度も青梅の家に来て、主人に「もう別海町の漁協組合に仕事を決めてあるから帰ってきてくれ」と説得しているのは聞いていましたからね。とはいえ、旅館を切り盛りすることになるのは私ですからね(笑)。もうあの頃はとにかく不安で不安で仕方がなかったです。
移住当初の孤独。時間はやはりかかるもの。
別海に初めて来た時、季節は夏でした。当時は直行便なんてないですから、羽田空港からYS飛行機に乗って、帯広で降りる。燃料補給をしてそこからまた釧路へ飛ぶ。そして釧路から国鉄の汽車に乗って標津まで行くんです。窓から外を眺めていると、どんどん変わる風景に「あぁ……」ってどんどん気分が落ちていきましたね(笑)。標津駅に着くと車で迎えに来てもらって、ようやく主人の実家「戸田旅館」に着きました。
当時この辺り(尾岱沼)は砂利道で、今みたいに綺麗な家はありませんでした。いまは町になっているけれど、当時は字(あざ)ですから。家の屋根に強風対策で大きな石を置いている家がたくさんありましてね。「これからここに住むんだ」と思うと、実家とのあまりの違いに「ここでやっていけるのかしら……」と不安で仕方なかった。実家がある青梅は東京の外れでしたが、道路は舗装されていましたし、近くに大きな高校もありましたから別海は異世界だったんです。住んでからもしばらく「うわぁ……」って肩を落とすことが多かったですよ(笑)。電話も実家は黒電話でしたが、ここは当時手回し式でした。なので帰りたくても帰れなかったんです。青梅まで電話もかけられないんですもの(笑)。
来たばかりの頃はどこも行くところがなかったものですから、寂しさと不安で泣きながら国道で息子をおぶって行ったり来たり。頼りの主人は朝から晩まで仕事に出ていましたし、当然私には別海に友達もいなかった。いま思い出してもとても辛い時期だったと思います。でも保育所が息子の入る年の頃に建ったんです。それからは私にも母親友達ができてきて段々と気持ちに余裕が出てきましたね。それまでは生活も仕事も旅館なものですから、外で人と関わることが少なかったんです。主人は仕事で家を空けていますし、いるのは自分と息子だけ。仕事に家事にと大変でしたよ(苦笑)。
少しずつ別海人に。
同じ頃、自分の時間も持てるようになりました。子育ても少し落ち着いたし、青梅の実家に帰省できるようになったんです。「年に一回は帰省できること」が別海移住の条件だったんですが、実際そうはいかないもので。だから帰省したら昔からの友達や両親に会っていろんな話をして、本当に嬉しくて楽しかったです。
いまでは頻繁に東京にいる息子や昔からの友達に会いに行っています。65歳を過ぎてからはシニア割引で乗れますからね。昔は行くだけでも大変でしたから。移動含め1週間ほど旅館を空けなきゃなりませんでしたので、そうそう帰ることもできなかったんです。
ちなみに両親は別海に2度ほど来ましたが、周りを見渡して「いつでも帰って来い」なんて言っていました(笑)。
この町もいいなと思えるようになったのもその頃。息子が保育園に上がってようやく「あぁ、ここは景色もいいし食べ物もおいしい。人情味のある人も多いこの町に来れた私は幸せ者なのかも」って思えるようになりました。だんだんと町に溶け込んで、明るい気持ちになれたんでしょうね。
最初の頃は、「よそ者」として「いつまでいるんだろう」って目で見られていたと感じていたし、「こんなこといつまで続くんだろう」って思ってた。東京からの移住者は多分私が初めてだったと思いますし、枚方との友好都市だって私が嫁いできたずっとあとに始まったことですから仕方ないとは思いますが。でもそれを耐えぬいて今の私がある。ここでの生活に慣れてきて知り合いができると、協会や学校の色々な会に参加したり、こっちで出来たお友達とお喋りをしたり。周りの方たちに助けられたのも、すごく大きかったです。
でも……実は環境に耐えかねて、来たばかりの頃に息子を連れて青梅に帰ったことがあります(笑)。旅館では先代と仕事をしていたんですが、やっぱり東京から来た娘ですから何もできなかったんでしょうね。使用人の何人かにちょっといじめられたりしてました。主人も気付いていたみたいで、ある時「東京で少し休んできなさい」と、一ヶ月ほど実家に帰らせてくれたんです。
「移住者」から「尾岱沼の女将」に。
店は息子が中学を出た頃に先代から継ぎました。それからは毎日先代と一緒に仕事してましたね。「ここにずっといよう」と思うになったのは、この旅館を正式に先代から継いでからです。息子は東京の高校に通うことになりましたからお金もかかる、主人の稼ぎだけでは難しいということもあって「私も頑張らなきゃ!」ってがむしゃらだったんですね。
私が継いでからは旅館で昼食を始めることにしました。シマエビをスーツケースに詰め込んで、東京の神田まで昼食の営業に出向いた時期もありましたね。それでいまの旅館の昼食が根付いているんです。当時は「とにかく頑張ってお金を稼がなきゃ!!」そんな思いで必死でした。
あと、昼食を続けている理由はもう一つあるんです。今でこそ厚岸方面に行く観光バスが昼食に尾岱沼を利用するんですが、昔はそのままサーっと通りすぎていました。私は「せっかくおいしい食材や綺麗な景色があるのに、素通りされてしまうなんてもったいない!」と感じていて、少しでも足を止めてもらいたかったんですよ。尾岱沼の商店を利用して頂くことで、少しでも別海町に興味を持ってほしい、知ってほしいという思いがずっとあって、いまでも続けているんです。
でも、もちろん客商売ですからずっと順風満帆というわけにはいかない時期もありました。そんな時に「水洗便所を導入しよう」という話になり、旅館に設置しました。別海の旅館では初めてだったんじゃないかしら?それで、客足が伸びたんです。
地道な昼食営業や困難にぶつかった時に諦めず新しい方法を考えることで、先代から受け継いだ「うたせ屋」は続いています。
実は香港のメディアに紹介して頂いたこともあって今年は香港のお客さんが多いです。外国系の方はアジア系が多いですね。特に香港や台湾が多いです。外国人宿泊客が増えたのはここ数年のインバウンド誘致が始まってからですね。台湾の方もよく来られます。私は英語も話せないから大変ですけど、後はもう度胸ですよ。
あ、そうそう。うちの旅館の料理人はニューヨークに8年間いたんです。帰国してからうちの旅館で5年働いておりましたが、40歳になった時に「自分で商売がしたい」ということで15年間宅配寿司をやっていました。そしてそこを畳んでまたうちに戻ってきてくれたんです。その料理人が外国語を話せるので助かっています。
いまの自分を作ってくれた町への思い。
別海にこうやって長い間住んでいて、息子・娘もここで育って、おかげさまで旅館も続けてこられました。だからいつか町に対して恩返しをしたいと考えていたんです。それで別海町観光協会に入って、60歳の時に会長に就任しました。本当は一期でやめるつもりでいたんですが、なんやかんやでもう10年近く務めています(笑)。
別海の観光協会は、「女性が主導でやっている」ということで話題になって新聞に乗ったこともあるんですよ。
「うたせ屋」は、息子が「戻ってきて旅館を継ぐ」と本人も言ってまして。待ち遠しいです。もう半世紀近くこの旅館をやってきましたが、せめてあと5年は私が頑張って息子にたすきを渡したいと思ってるんです。別海町で先日催されたビアカラに息子が来たんですが、物凄く楽しんでいました。成人する前に東京へ出て、都会の感覚が身についている息子が町に戻ってくることで住民と違った感覚で物事を見ると、私たちと違った町の良さを見つけられるんじゃないかなって思います。他所からの物を持ち込むこともこの町には大切なんですよ。
息子が継ぐ時にはお嫁さんは旅館で私の時みたいに、前に出させなくてもいいと思っています。私が経験した苦労を彼女にもさせたくないんです。本人が興味を持ってやりたいと言えばやってもらおうと。そういうスタンスです。息子も高校の頃からずっと東京ですから、50歳近くになって故郷に戻ってくればきっと新しいことも始まるんじゃないかなと思っています。東京の良さも、田舎の良さも分かる人が町に新しい風を吹き込んでもらえたらなと思っています。
2016年8月3日収録インタビュー:廣田洋一
テキスト:倉持龍太郎
撮影:菅原銀次郎