スポーツ漬けの学生時代。
人羅茜と申します。別海町役場の産業振興部商工観光課に勤めています。昭和57年生まれの射手座。茜という名前は、父親が好きだったマンガのキャラクターが由来っていう話をきいたことがあります。「生まれたのが夕方だったので夕日の色だ」っていうのは、後付けの理由ですね(笑)。人羅家は、元は京都の亀岡で豆腐屋さんをやっていたらしくて。珍しい名字なので色々調べたんですけど、京都でもあまりいない名前みたいですね。ひいおじいちゃんの代に別海町上春別地区に入植して、最初は当時の尋常小学校の近くで日用品を売っている雑貨屋をやりながら、生活できる程度の数の牛を育てていたらしいです。ひいおばあちゃんが足を悪くして、店をひとに譲ったのを期に、酪農家専業になりました。
学校は、上春別小中学校に通っていました。陸上競技とスピードスケートをやっていたので、朝は6kmの道のりを夏は自転車、冬は走って学校に行き、7時前から陸上の朝練をして、授業を受けて、放課後は「部活」としてバレーボールをやって、冬はそれを途中で上がらせてもらって少年団でのスピードスケートの練習を夜8時までやって……という生活。それでも勉強はちゃんとしていましたよ。親が厳しくて宿題とか勉強とかは絶対にやらされましたし、小人数の学校だったので、授業に置いていかれないんですよね。わからなかったらききやすいですし、「授業がわからない」って言えない子が少なかったんです。さらに、学校が早く終わった日やテスト期間中は、仔牛にミルクをやるのを手伝ったり、牛のエサやりやフンよけもやっていました。
高校は、札幌にある陸上強豪校の推薦をもらえるっていう話があったんですけど、お金もかかるし地元を出て行くのが不安だということもあって、地元に残りました。陸上競技の種目は、比較的何でも平均的にできるんですけど、飛びぬけてできるというものがなくて――体も小さいので――中学校のときに3種競技という合計を競う種目をやっていました。高校生になると小さい頃から競技を続けている選手との差が顕著になるんですよね。そうなると今までやっていた種目でも周りに敵わなくなってしまって。それなら高校から始まる競技を頑張ろう……となると、棒高跳びかやり投げのどちらかなんですよね。でも高校で棒高跳びを教える人がいない、投擲のコーチはいる……ということで、「じゃあ槍を投げます」と。小学校の頃から男子と負けずにドッチボールして鍛えたので、肩は強かったんです。一応北海道で1位でした。
「農家じゃない人がこんなに多いんだ!」
大学は、東京の体育大学の体育学部体育学科に進学しました。東京都国立市にキャンパスがあったんですが、上京することが決まって初めて東京に23区以外の「市」があるって知ったんです。埼玉県も神奈川県もものすごく近いことを初めて知って……衝撃受けましたね~(笑)。こちらみたいに、町を出たらしばらく周囲に何もない道路になり、そこをしばらく走るとまた違う町がある……というイメージだったので。一人暮らしも初めてでした。小学校高学年くらいから、仕事に出ている両親の代わりにある程度家事をやっていたので、基本的なことはできたのですが、でもいろいろ大変でしたね。両親も一人暮らしの経験が無かったので、敷金・礼金というものにピンと来なくて、業者さんに文句を言ってしまったとか(笑)。
大学では、理不尽なこともありましたよ。ウェイトトレーニングで上がらない重さのものを上げるまで練習が終わらないとか。「あぁ、世の中厳しい……」って。今まで、狭いコミュニティの中で守られていたんだっていうことを初めて知りましたね。
あと、農家じゃない人がこんなに多いんだっていうことにびっくりして。自分が特殊な環境で育ったということを知らなかったんです。それからは、農家出身だっていうことが結構恥ずかしかったんですよ。ただ、周りの反応は違いました。世田谷区在住の子とかに「実家が酪農家で、牛の乳を搾っている」っていう話をすると「えっすごいじゃん! 行きたい行きたい!」っていう感じになって(笑)。そのとき初めて、自分の家の仕事ってそんなにうらやましがられるものなんだって知りました。
出身の場所も、恥ずかしくてならなかったですね。札幌とか旭川とか、ぎりぎり釧路までは「あ~、あそこね」ってわかってもらえるんですけど、「別海町」って言ってもみんなが知らない。「田舎からなんもわかんないで出て来ました。すみません……」みたいな思いでいました。
言葉の使い方も、言い回しとかちょっとしたイントネーションが違うっていうのがすごくびっくりしました。「押ささる(「押せる」の北海道弁)」っていう言葉とかを普通に使って、「えっ?」って聞かれて。そういう方言は、東京出身の人は聞くと嬉しいみたいで、バカにしているつもりもないみたいなんですけど、私はそれが恥ずかしくて。料亭や定食屋さんで接客のアルバイトをして、標準語をいっぱい聞いて、必死で直しましたね。
そもそも接客もちゃんとしたことがなかったので、できないのはまずいって思ったんです。地元ではみんな知り合いなので気負わず話せたし、運動関係の人とは普段からしゃべっているけど、正しい言葉使いだったり、お茶を持って行くことさえもできない、何も知らないことが恥ずかしかった。自分の社会性のなさっていうのは、東京に行って初めて知ったんです。
父親からの急な「帰ってこないか」
実家は、昔は酪農ヘルパー(※)をとらない家だったので、泊まりで家族旅行に行ったことは一度もありませんでした。家族全員で出掛けたことも1、2回しかなくて、それも朝の搾乳後に遊びに行ったら、夜の搾乳までに帰ってくるっていうのが当たり前。両親は毎日毎日どんなに具合が悪くても、父親がつるはしで足を貫通させたときも、母親が捻挫しても、鎖骨が折れていても仕事をしていました。ヘルパーをとって泊まりで出掛けたのは、私の最後の全道大会のときが最初で最後。友だちも整備工場の家の子だったり小売業の家の子だったりと、周囲に自営業の人が多かったので、土日は公的には休みであるとか、有給とかボーナスがあるとか、そういう社会のシステムを知らなかったくらいです。
(※)酪農家の代わりに農作業をする人。農協や民間会社などに所属している場合が多い。
とにかく毎日休みもなくずっと働いていた親を見て、「自分はこんな仕事には就かない。土日出勤だったとしても、会社員になる!」と思っていました。もちろん、仕事でお金を稼いでくれた両親には感謝していたんですけどね。実家に帰る気はなかったんです。自分1人で生きていかないといけないという気持ちがすごく強くて、なんとか独立したいと思っていました。
大学卒業後は、渋谷にある音楽の学校で、教務として就職しました。講師のスケジューリングだったり、学校説明会の企画、営業、パンフレットの発注・校正、トイレ掃除から学科の担任まで、何でもやりました。親も、学校関係に就職したということで安心していたようです。
ところが、2009年の8月くらいに、急に父親から電話がかかってきて、「帰ってこないか」って言われたんです。父親は、それまで1回も「帰ってこい」なんて言ったことがありませんでした。父親自身、本当は大学に行きたかったけど、行けなかったという経緯があったから、私には「お前は好きにしろ」って言っていたんです。「ただ、自分で決めたことはしっかりやりなさい。責任はとりなさい」っていう親だったんですよね。しかも思春期の頃からあまり会話をしなくなってそのままだったので、急な「帰ってこないか」に「これはどうした!?」ってなりまして。話を聞いたら、「別海町役場が10何年ぶりに中途採用をやるぞ」と。「ちょうどお前の年齢の枠なんだ」と。父親なりに、私が朝早くから夜遅くまで働いているうえに、給料がすごく低いことを心配していたんですね。しかも、ちょうどその少し前に実家に帰ったときに、父親の体調が悪いっていう話をちらっとされていたんです。母親からも、「お父さん、『もう病院行くの、疲れた』とか言っている。あんたの言うことだったら聞くから帰ってきて」と言われまして。年齢も年齢だし、給料が安くて何かしてあげられるわけでもなかったから、ここは言うことを聞いて、親孝行するつもりで採用試験を受けたんです。
最悪、不採用でも家の仕事があるな~っていう気持ちでいたんですけど、父親はそれを見抜いていたんだと思います。「そんな中途半端な気持ちで、俺らが死ぬ気でやってきた仕事を継がせるか」と思っていたんでしょうね。決して私に「家を継げ」とは言わなかったんです。
帰ってきて初めて知った、地元の良し悪し。
別海町に帰ってきた最初の頃は、辛かったですね。こっちでの人間関係なんて高校までの同級生くらいだし、もちろん働いたこともないのに、「ホームに帰ってきた」というつもりでいた自分が甘かったんですよね。
まず、みんなが顔見知りすぎるんです。「人羅茜」っていう個人じゃなくて、「人羅さんの娘さんね」、「誰々の同級生だね」っていうところからしか自分の存在がないんですよ。あとは、1人1台車を持っているような状態なので、車で個人が判別されてしまうんですよね。「昨日、どこどこに買い物に行っていたでしょ~」とか、友だちが遊びに来ていたら「家の前に車が停まっていたけど、誰?」って言われてしまう。悪気はないんです。親しみを込めてなのですが、「近所」の範囲が広いことに面食らいました。
もちろん、この土地ならではのいい面もありますよ。とにかく友だちには助けてもらいました。何か困ったことがあっても、友だちやその知り合いの誰かが助けてくれるんです。家を借りるときもそうでした。実家から仕事に通うこともできるのですが、冬期の吹雪で通勤に支障が出ることを考えて、役場の近くのアパートを借りることにしたんです。でも、不動産屋さんもないのにどうやって探せばいいんだろうと思っていたら、親の知り合いや役場の人の知り合いからの紹介で家を借りることができたんですよね。そういう感じで、東京で常識だったことが、こっちで通用しないっていうのがいっぱいあって、それを何の気なしに教えてくれる人たちがすごくいっぱいいたんです。それこそ何かやらかしてしまったときにも、――車が雪に埋まったらすぐに誰かが助けてくれるとか――みんながなんだかんだ回避してくれていたんですよね。後になってそれを知ったっていうことはいっぱいあります。
移住をするということは、やっぱり「違うところに住むんだ」っていう気持ちを持たなきゃいけないのかもしれないですね。今までのルールが適用されないっていうことがすごく多いんです。「郷に入っては郷に従え」というように、なんかしらの暗黙の了解っていうのはどこにでもあると思うんですけど、そういうのを察知しなければならないんですよね。特に、外から来た人を受け入れるっていうことに慣れていないところだったら、相手に構えた感じでこられるとお互いキュッと構えたまま誤解を生む可能性がありますよね。だからオープンな気持ちで、何がわからないのか、何が面白いと思うのか、そういうことを素直に出せればそれだけでいいんじゃないかなって思います。
父との最後の時間と、これからの自分。
父親は、私が帰ってきてしばらくして、ガンだってわかりました。抗がん剤治療で短期入院するというのが、どんどん入院日数が長くなっていき、ついには帰れなくなってしまって。本人も不安がっていたので、付き添いのために仕事を辞めようと思っていたら、上司から休職を勧められたんです。私は、周りに迷惑をかけるし――そもそも迷惑をかけるほど仕事もできていませんでしたが――、入って数カ月しか経っていないのに休職なんておこがましいと思っていたのに、「急に仕事がなくなったら大変でしょう。来られるときには何時間でもいいから仕事をしなさい。付き添いは大変なもの。気分転換にもなるはずだから」と言っていただきまして。ありがたく3ヶ月休職させてもらって、付き添うことができました。それまで親孝行したことがなかったのに、初めてちゃんと親としゃべったんです。父親が初めて買った車の話とか、万博に行ったこととか、高校生のときにラグビーで花園を逃したときの悔しかった話とか。10月に入って、母親と「雪が降ったら病院に通うのが大変だね。どうしようか」って悩んでいたら、その話を聞いていたかのように、父親は亡くなりました。
父親が亡くなって初めて、人が亡くなった後に何をするか知らない自分に気付いたんです。どこにでもその土地ならではの決まりっていうのがあると思うんですけど、こちらでの葬儀の決まりっていうのを私は知らなくて。ひと泣きして病院から帰ったら、親戚が家に集まって祭壇や戒名の相談をしているし、牛は乳を搾れとモーモー鳴いているし、ヘルパーさんも急には頼めないから母親は夕方から搾乳するって言っているし、父親の口座は凍結になってしまって引き落としができなくなるかもしれないし……。
葬儀でも役場の方が来てくださって受付を担当してくれたり、農協の方も何かできることはないかと駆けつけてくれ、特に近所の人にいろいろ手伝っていただいてなんとかなりましたが、あまり葬儀の記憶がないですね。農家が現役のときに亡くなったら大変だっていう話を聞いたことはあったんですけど、まさか自分が体験するとは思いませんでした。
今は、母親が従業員さんと一緒に牧場をやっています。自分がいずれ実家で仕事をする可能性は0ではないというのは、父親が倒れて初めて考えました。母親が健在なうちにいろいろ聞いておかなきゃいけないし、習っておかなきゃいけないことってすごくたくさんあるんですけど。しかも、母親が搾乳ロボットに興味を持って――仲のいい農家の人が入れたのを見ちゃったもんだから――「お母さんはお金借りられないのよね。あんただったらまだ結構借りられるんじゃない」みたいなことをさらっと言うんですよね。でも、今はまだ母親は元気ですし、今の仕事もありますし。入ってすぐに休職させてもらうなど、当時の上司や同じ課のみなさんにはたくさん助けていただきました。帰ってきていちばん最初に就いた仕事でいろいろよくしてもらったので、そういう方々と一緒に仕事をしていたいっていう気持ちがあるんです。酪農は選択肢のひとつとして、頭の片隅にある……という感じでしょうか。
縁の下の力持ちとして、「当たり前」を「魅力的」に。
こちらに帰ってきて、別海町役場で仕事をする! となったとき、やる気はあったのですが、役場ではどんな仕事をしているのかっていうのが、具体的にわかりませんでした。いわゆる「役場」のイメージって、よくなかったんですよね。東京に住んでいたときの市役所の職員や、前の職場で関わった役所関係の人に、あまりいい思い出がなくて。だからこそ、自分が仕事をするときに、私が苦手だった役場職員のように周りから見られていないかな……という気持ちは常にあります。
今は、役場で働き始めて7年目の年になります。その間に1度異動を経験し、今は観光振興の仕事をしています。イベントの企画・運営というのが、みなさんの目に付きやすいことかもしれません。もちろん会場の設営・会場管理・片付けも大事な仕事です。施設管理もあります。計画的に施設を修繕したり、利用しやすいように環境整備をしたり。別海町の魅力をPRするために、旅行会社相手の商談会に行くこともあれば、物産展などで実際にお客様へ商品を販売しながらPRすることもあります。地元の人にとっては当たり前になってしまっていることが、観光に来た方にとっては魅力的だということがたくさんあるんですね。そういうことを旅行商品にできるように計画・調整もしています。
みんなで意見を出して考えて、企画して、実行して、反省もして、次に活かすことができる仕事です。面白さも多いですが、苦しみも多いですね。怒られることも多いですし、自分がやっていることが自己満足になってはいないかとかを考えたらきりがなくて、胃が痛くなったり夢でうなされたりもしています。その代わり、企画が形になったときの感動はひとしおですね。
私たちの仕事は「主役」ではなく、「縁の下の力持ち」なんです。観光を手法として町の振興につなげる、その裏方を支える一人として、頑張っていきたいと思っています。
2016年8月2日収録インタビュー:廣田洋一
テキスト、撮影:佐藤陽子