ほらり

木嶋悦寛:町に溶け込んで、楽しんで、それが町のためになればいい。

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約13分

別海町に来るきっかけを作ったのは、妻。

木嶋悦寛です。『有限会社ケイ・クリーンサービス』という清掃会社を経営しており、さらに別海町の町議会議員を務めて2期目になります。1959年生まれの56歳です。生まれは、母の故郷でもある北海道虻田郡倶知安町。それから父の転職に伴って室蘭市に9歳までいて、さらに父の転勤で愛知県東海市に移住しました。学生時代も就職も、さらに妻と出会ったのも愛知県です。僕が別海町に来るきっかけを作ったのは、妻なんですよ。

妻は別海町の出身なのですが、名古屋市の大学で福祉の勉強をしていました。中学生のときに訪れた沖縄で、傷痍軍人が白装束で物乞いしている姿を見てショックを受けたのがきっかけで、福祉の道に進んだんですね。さらに中学・高校でクラリネットをずっとやっていて、大学でも吹奏楽団に入って演奏していたんです。その楽団にいた彼女の同級生が、僕の友人でもあり、その彼から僕にエキストラ(賛助出演者)の依頼が来まして。僕は中学2年からトロンボーンをやっていて——高校からケーナもやるんですけど、その話はまた後で——当時はすでに就職していたのですが、会社の吹奏楽団にも所属していたんです。

出会ったとき、彼女は大学3年生。卒業後は別海町に帰って、根室市の障がい者施設に就職したので、それからは遠距離恋愛ですね。時々札幌で会ったりしながら交際を続けていき、2年半くらいして——僕が27歳のときですから1986年ですね——愛知県の方に彼女を呼び戻して結婚しました。

初めて別海町に来たのは、妻の両親に結婚を申し込んだときです。自分も子どものころに北海道に住んでいたから、「北海道の風景」っていうのは自分の中にイメージができていたんですよね。だけど、それとは全然違う風景が広がっていたのでびっくりしました。室蘭のあたりの風景とは、まーっっったく違いますよ。向こうは山のすぐ近くに海があって、その間に街があって、いろんなものがわりと近くに集まっている土地なのですが、別海は本当に広々していて、スケールが違う感じですね。一発でこの地域が大好きになりました。

あの町だったら行ってもいいかな……。

僕、結婚したときに苗字を変えているんですね。妻が一人娘ということもあって、向こうの親に頼まれたので、「あ、いいですよ〜」って。今考えると、その時点で将来(別海町に来ること)が決まっていたんじゃないかなって気がします。

妻は愛知でも障がい者施設で働いていて、僕は建設関係の会社で不動産販売の仕事をしていました。当時はバブルで不動産の絶頂期。良い時代でしたよ。でも、その絶頂期に辞めたんです。妻に「もっと人間らしい生活をした方がいいんじゃない?」って言われて。とにかく朝から晩まで働き詰めでしたから。

その後、別の建設会社を経て、妻と同じ障がい者施設に勤めました。さらに、「グループホーム」という、障がいのある人たちが共同で暮らす家の世話人を、夫婦で住み込みでやったんです。障がいのある人たち5人と僕たち、みんなで一緒に生活していました。

さらにその後、職人としての技術を一から学ぶために、母が作った清掃会社で仕事をさせてもらいまいた。これは、手に職があれば将来どこに行っても役に立つだろうと思ったということと、もう1つ、想定していたことがあったからなのですが。

いつか別海町に行くんだろうなっていうのは、自分では漠然と思っていたところがありました。「あの町だったら行ってもいいかな……」と。妻とも、妻の祖母が元気なうちにまた別海に行きたいねという話をしていたのですが、ちょうどそのころ、別海町に「柏の実学園」という障がい者施設ができるということになりました。妻の両親からの勧めもあり、じゃあ、それを機に移住しましょうということになりました。1999年のことです。

移住後の1年半くらいは、「便利屋よっちゃん」っていう屋号で便利屋をやっていたんです。清掃はもちろん、草刈りをやったりコントラ(※)の仕事をやったり。建築関係の仕事をしていたのも何かと役立ちました。昔、よく上司から「『何でも屋』はダメだ。何かひとつ、秀でたものがあればいい」って言われましたけど、僕はそうは思っていなくて。やっぱり何でもできた方がいいですよね。その考え方が、ここでの生活に合っていたのかもしれないですね。

(※)農作業委託(コントラクター)のこと。牧草収穫などの機械操作を請け負う。

ケーナ1本あれば、世界中の人と仲良くなれる!

ところで、僕はケーナという縦笛を吹くのですが……。高校生のときにフォルクローレ(※)ブームがあり、ラジオから流れてきた曲を聴いて「あ、これいいな」と思って吹き始めて、もう40年くらいになります。愛知にいたころからバンドを作って活動していました。別海でも、来て2週間くらいでもう音楽仲間ができ、すぐに根室・釧路管内くらいの範囲まで交友関係が広がりました。音楽活動を再開することができたんです。おかげさまで、来た年には釧路市でのイベントやお祭りに出演していましたよ。次の年くらいにはNHKの番組にも出ていました。音楽をやっているっていうのは、コミュニケーションツールを持っているっていうのと同じなんですよね。「ちょっとやってくれる〜?」「一緒にやろうよ〜」って言うだけで、どんどん仲良くなれるんです。

(※)スペイン語で「伝承・民俗学」などを表す言葉。ここでは南米の民族音楽のこと。

ケーナは南米のボリビアあたりが発祥なのですが、ボリビアの音楽をもっと極めたいと思ったときに、そのために何がいいかって考えたら、やっぱりリズムを体で覚えることなんですよね。だったら、ダンスを習おう! ということになりまして。僕の音楽の師匠の奥さんがボリビア人トップダンサーだったんです。その方に習いながら、名古屋で日本初のボリビア民族舞踊団を自分たちで作りました。ボリビア修好100周年のイベントでは、南米の各国大使が来ている中で記念公演もしましたよ。

さらに、男性の先生にもダンスを習いたいと思っていたので、レッスンを受けるために、2か月間ほどボリビアに行きました。別海に移住して1年も経たないころのことですね。ミュージシャンの家にホームステイしていたので、歌や楽器も教えてもらいました。ケーナって軽くて小さい楽器なんですが、それ1本あれば世界中の人と仲良くなれるんですよね。

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この町の空気を吸って、そこから出てくる音楽が自分たちの音楽。

首都のラパスという大きな都市に滞在していたのですが、標高3700メートルくらいのところにあって……富士山の頂上くらいの標高ですから、1週間くらいは高山病で体調が悪かったですね。でも、楽しかったですよ〜!向こうの人たちは週末になると、よくパーティーを開くんです。モレナーダという踊りを踊るパーティや、いろんなのに行きましたよ。朝までどんちゃん騒ぎするんです。もう、ただみんなで輪になって踊って飲んでいるだけ。食べないんですよ。僕がやったパーティーでは、飲むなら食べ物がないとダメだから、お好み焼きを作ってあげたの。「なんだこれは」って聞かれたから、「ハポネス(日本の)トルティーヤだ」って(笑)。始めは誰も食べないんだけど、食べさせたら「うまいな、これ!」って。

あと、自分がやっぱり日本人なんだなって再認識しましたね。自分たちがいくらコピーして音楽をやったって、ボリビアの現地の人には追いつけないし、「本当のところ」は表現できないって痛感して。それが分かって、フォルクローレにはこだわらなくなったんです。この町に生活して、流れている空気を吸って、そこから出てくる音楽が自分たちの音楽だろうと。だからオリジナル曲を作ろうって思ったんです。それはボリビアに行ったからこそ、分かったことですね。

ボリビアから帰ってきてからは、さすがにきちんと仕事をしようと思いました。でも正直言うと、この町には自分が勤めたいと思うような会社がなかったんです。それは、自分ができることがないということではなく、自分の理念を実現できる場がまだなかったということです。とにかく、ないなら自分で会社を作ってしまえばいいということになりました。

自分の使命は「障がいのある人たちでも働ける会社を作ること」。

会社を作るにあたって、自分の中での使命を決めていました。それは、障がいのある人たちでも働ける会社を作りたいということ。

世の中からドロップアウトしてしまう人たちの何割かは、実は障がいを持っているんです。重度の障がいの場合——それも確かに大変ではあるのですが——障がい者手帳を持っていて、国の制度によって守られ、施設や地域で暮らしていけるわけです。でも軽度な発達障がいとか知的障がいなどの場合、社会に適応しにくく、普通に仕事ができないのだけれど、福祉の制度も使えない。福祉の仕事をしていたときにそういう人たちを見まして、「この人たちは、もしも親がいなくなったらどうやって生活していくのだろうか。そういう人たちを誰かが受け止めていかなければいけない」と思ったんですね。そして、清掃という仕事には、受け皿を作るにあたって、可能性があると思ったんです。親の会社で清掃技術を仕込んでもらったのは、そういうことも想定したからでした。

清掃ってとても難しいんですよ。それを障がいのある人たちでも働けるようにするにはどうしたらいいかといいますと、まず作業内容を全部分解するんです。そしてその一部分だけを取り出して、この人だったらこの作業ができる、あの人だったらこの作業が向いている……というように割り振り、毎日繰り返して習得してもらうんです。それがまかせておいてもできるようになったら、健常の人と組んで仕事をしてもらい、健常の人にはそれ以外の作業とフォローをしてもらうんです。

こうして『有限会社ケイ・クリーンサービス』を2000年に設立して、今年で17期目。従業員は常に10人(その内、障がいのある人が2〜3人)くらいで推移しています。妻と結婚していなければ、当然、このような会社を作ろうとは思いつかなかったでしょうね。

町になじむ第一歩は「いきなり町内会副会長」!?

移住してすぐのころは柏の実学園の職員住宅に住んでいたのですが、2年ほどしてから、この場所に家を建てて住み始めました。実は、住み始めてすぐに、この地区の町内会の副会長をやったんです。と言うより、住み始める前から、副会長になることが「予約」されていたんです。近くに伯父が住んでいるので、推薦されたんだと思います。

こういうとき、普通だったら「え〜っ」と困惑するのでしょうけど、僕は「チャンスだ!」と思ったんです。町内会に入ったら、そこの役員さんたちと自然と知り合いますよね。これがこの土地になじむためのとても大きな第一歩になりました。近所には町役場や農協関係の人も多いので、そういういろんな人たちと関れたことが、今につながっているんです。

その後、町内会長も5年やりました。その任期中ですね、2006年の11月から2008年の3月まで「べつかい協働のまちづくり町民会議」が開催されたんです。今、全国的に「協働のまちづくり」というのが活発になってきていますけど、つまりは町民と企業・行政など、異なる組織がそれぞれの得意分野を活かして「まち」をより良くしていこうという取り組みです。僕もこの会議の参加者として応募しました。この1年半にわたる会議の中で、どのように「まち」が作られているのかがわかり、「まちづくりってこんなに面白いんだ」と思ったんです。

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自分たちができることをやっていく、その積み重ねが「まち」になる。

この会議では「協働のまちづくりのための提言書」(※)というのを作りました。自分のアイディアがどんどん「提言」という形になっていくのが本当に楽しかったですよ。東田(とうだ)秀美さんという方がファシリテーター(司会進行・水先案内人)として会議を引っ張っていってくれたのですが、その方のファシリテーションも素晴らしかった。まずは皆からいろんな意見をごちゃごちゃと出させておくんです。それをうまく集約してもらうことで、実はちゃんと道筋ができているんだよというのを、私たち自らに気付かせてくれるんです。皆で一緒に考えて話をして、盛り上がっていく楽しさっていうのを存分に味わいました。

普段、「住民」でいると、「自分たちがいろいろ考えて町ができあがっているんだ」なんてことはあまり思っていないかもしれないですよね。でも実際は、「自分たちができることをやっていく」「それぞれの立場で役割を果たす」ということの積み重ねで、「まち」ができているわけですよ。しかも、自分が関わることで、何かが変わるんです。単純なことなんだけども、その仕組みを知っただけでも、自分の世界がパッと広がっていくような感じがしたんですよね。

町内会をやっていたときは、清掃活動をしたり防災組織を作ったり、高齢者の支援をしたり……という形で、部分的に「まちづくり」を担っていたわけです。でも、町の全体のことを見るっていうのは、この会議が初めての機会でした。このとき、「じゃあ、町のいろんなことを決めていく『議会』っていうのはどうなっているんだろう」って思ったんですよね。

ちょうどそのころ、ここの選挙区から出ている国会議員さんと知り合う機会がありまして、その方の後援会にも入っていたんです。やがて後援会の幹事長にもなったのですが、そんな縁もありまして、町議会議員としてやってくれませんかというお話がきたんです。最初は妻に、「自分の仕事もあるのだし、簡単になれるもんじゃないよ」と言われましたけど、熱心に推していただいたので、出馬することにしました。初当選は2011年。2015年の町議会議員選挙でも当選したので、今2期6年目です。

議会があるのは、定例会と委員会、臨時議会なども合わせると——僕は常任委員会を2つ掛け持ちしているので——年間70日から80日くらいです。1年の1/4くらいということですね。これだけの日数が、普段の仕事にプラスされるわけですから、職場の理解というのはとても重要になってきます。

弱い人たちの思いもくみ取って、共に生きていく。

今後の展望としては、5年後10年後も見据えて、本当の意味で「共に生きていく場所」を作っていきたいと思っています。「共生」という言葉がありますが、口で言うだけでなく、実践できることをやっていきたいんです。

例えば、発達障がいのある子どもたちの居場所作りであったり、子どもからお年寄りまで、多世代の人が一緒に過ごせるような場所作りですね。だんだんぶつ切れになってきている、ご近所同士や異なる世代間のコミュニケーションを回復するような場を作っていけたらいいなと思っています。

さらには、別海町の歴史や文化を再認識して、専門的な資料を蓄積するための仕組み作りです。それらに磨きをかけていき、一般の人たちが気軽に触れあえる場所というのも大事になってきます。僕が自宅で——5年前にホールを増築しましたが——15年前から全国からミュージシャンを招いてライブを開催するようになったのも、もっと音楽を身近に感じられる場所があるといいなと思ったからです。こんな田舎にいても、一流の音楽を身近で聞くことができるんだよと伝えたかったんです。

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それから、人に磨きをかけるということですね。今は、札幌の学生をインターンシップとして受け入れていますが、この町の中でもできることがあると思うんです。「学ぶ場」というよりは、情報がオープンになっていて、それを自分たちで選べるようになっているという雰囲気がいいのではないかと思っています。まずは、このような取り組みがなじむように、「『人を育てる』っていうことがとても大事なんだ」ということを多くの人に知ってもらうことからですね。今は、そのための経験を積んでいる段階です。

僕ら議員は、いろんな人の話を聞いて回る「御用聞き」をやらなきゃいけないなって思っているんです。僕は今でも一職人として仕事をしていますが、その中でいろんな人たちと出会って話を聞く機会が多くあります。他にも、町内会でおばちゃんの世間話に参加したり、飲み屋で会った人と話したり、ライブに来てくれたお客さんと雑談したり……。あらたまった場だとあまりしゃべってくれないようなことでも、普段から話をしていれば、周り回って情報が入ってくるものですよね。

民主主義というのは、単なる多数決の場なのではなく、いちばん弱い人たちの思いもきちんとくみ取っていくということなんです。それを元に、政策を作っていくのが議員の役割。だから、できるだけいろんなところに出掛けていって人と接する、ちょっとでも時間があったら誰かとおしゃべりするっていうのを、今後ももっとやっていけたらなと思っています。

2016年5月17日収録
インタビュー:廣田洋一
テキスト:佐藤陽子
撮影:廣田洋一
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