人の「物語」を知りたい。
子供の頃は引っ込み思案で、自分の意見をできるだけ言わないようにする性格だったと思います。場が丸く収まるのであれば自分の主張はせずに周りに合わせる、良く言えば「協調性があるタイプ」ですね(笑)。弟が下に3人いるんですけど全員個性豊かなので、自分は静かにしていようというのもあったのかな。
学校では1人で本を読んだり空想にふけっていることが多かったです。基本的に1人でなにかをするのが好きだったんですよ。自分で行動を決められる方が楽だし、周りにも気を使わないので。そんな性格があってか、中学・高校での部活は個人競技のテニス・弓道でした。いま考えると集団が苦手な自分の性格と選択がつながっていたのかな。協調性は大事にするけどチームワークは苦手って感じですね(笑)。
でも、人見知りだとか人付き合いが苦手ってわけではなくて。いまもそうなんですが、昔から好奇心が旺盛な方で、特に人と話して相手を知るのが好きでした。「こういうことがあって、こうなったから、いまこうなってる」って、物語を追っていくのが大好きで、聞いてるとワクワクするんです。映画を見たり漫画を読んでいて、登場人物が「どんなことを思ったんだろう、次は何をするんだろう」ってワクワクする感覚と似ていますね。
「面白そうだな」って思った人には自分から近づいていくので、ある意味、環境に溶け込むのは得意な方かもしれませんね。
好きは仕事の理想と現実。
好奇心が旺盛な性格は就活の時にも発揮されました。カフェ業界や旅行業界、デザイン業界など、とにかく自分が興味を惹かれる業界を中心に選考を受けてました。今でもそうなんですが、いろんなことに興味があって、いろんなことをやってみたいんです。仕事探しの基準としては、お給料は生活できる程度もらえればいいので、その分「好きなことを仕事にしたい」でした。好きなことじゃないと続かないと思うし、淡々と指示されたことをこなしていくっていうのも苦手で。
とはいっても、理想と現実のギャップはやっぱりあって。就活を勧めていくうちに観光の仕事はお客さんが集中する土日は当然出勤で、休みも少ない。デザイン系の会社も専門学校を卒業した人みたいなポートフォリオを持っていないし、もともと狭き門。選考で進んでいけないことが多くて諦めました。
そんなこんなで最終的に内定をもらったのは保険会社でした。きっかけは「就活生のための女子会イベント」というのに参加して、その会社のいろんな方と話したことです。そこでやったワークショップで、保険を組み立てて提案していくことにも興味が湧いて。上の方々のスーツがビシッとキマってたり、キラキラした女性の方々がいたのも魅力的でしたね。
それまでは保険業界を志望していたわけではなかったし、まだ4年の7月頃だったので就活を続けることも考えたんですが…残りの大学生活を謳歌したいとも思って内定を頂くことに(笑)。でも最初に営業を経験しておけば、これからいろんな能力を身につけることができるんじゃないかなと思ったのはありました。
野付半島との出会いは偶然に。
実は本当に生意気だと思うんですが、入社前の内定者面談で上司に「私、いろんなことがやりたいんで一年で辞めます」って言ったんです(笑)。それでも採用してくれた会社は本当に懐が深かったと思います。
それに営業って、当たり前なんですけど地道な作業の積み重ねで。何がお客様に響くかわからない分、何度も足を運んで提案をしてを繰り返していくんです。特に保険の提案って、お客様の人生に関わる仕事である以上すごく責任の重い仕事でしたし、その分やりがいもありました。わからないことや、つまづいた時は先輩たちも最後までサポートしてくれて。本当に良い会社だったし、良い経験をたくさんさせてもらったと思います。
でも二年目の終わりを迎える頃に、「やっぱり観光の仕事に携わりたい」思いが強くなってきて。保険営業という「人生を背負う仕事」が自分にとって重くなってきてしまったのもありました。それで転職活動を始めて、観光分野の仕事を見ていたら見つかったのが「別海町地域おこし協力隊」の求人と、「冬の野付半島の写真」だったんです。
別海町へ行く決心。その背景にあるもの。
私が観光の仕事でやりたかったのは「お客様のプランを練ったりすること」ではなくて、自分が足を運んで目で見たもの・感じたことを発信するってことで。別海町の地域おこし協力隊の求人はまさにそういう仕事でした。そしてなによりも募集ページにあった「野付半島の氷平線」の写真が衝撃的で。直感的に「ここに行きたい!ここにたくさんの人を集める仕事がしたい!」って思ったんです。
ずっと宮城で暮らしてきて、3人の弟たちの世話や家事でなかなか自分の時間が取れなかったことや、観光関連の仕事に就きたかった思いが強かったのもありますが、学生の頃にあった出来事が大きいと思います。
高校当時、弓道部で一番仲良しだった女の子が亡くなって。その子とある約束をしてたんですが、お互いタイミングが合わなくて。それを果たせないままお別れをしてしまったんです。それが自分の中で後悔というか、悔しくて。
だから「あとで」とか「また今度、次の機会に」ってなにかを後回して、悔やむくらいだったら思ったときに行動したいって思うようになったんです。それまでは子供の頃みたいに、周りに合わせたり嫌われないように振る舞うことが多かったんですが、もし何かを失敗しても、それが「自分のやりたくてやったことなら」って思えるって。
そのときの思いも、「地元を離れて別海町に来る」っていう行動力にもつながっているのかなぁって。今はそう思います。
最初は父親は反対されました。父子家庭だったので、父と私が家事担当だったんです。一人娘だし寂しかったんだと思います(笑)。でも最後には「自分で決めたことなら」って許してくれました。
新しい土地。新しい生活。
下調べをほとんどせず勢いでバタバタと動いていたので、宮城を出る日は期待と不安が入り交じっていました。仙台から札幌経由で来たんですが、国内線での乗り継ぎが初めてで、「ちゃんと乗り継げるだろうか…」って(笑)。
中標津空港についたのは夕方5時過ぎで、まだ3月だったのもあって外はもう真っ暗。なにか見えるかなぁと思ってバスの窓から景色を探したんですが、とにかく暗くて何も見えないのがちょっと怖かったです。
到着した次の日は役場商工観光課の方が来てくださって、いろいろとお世話になりました。ベッドやその他の生活必需品はこっちに来てから揃えるつもりだったんですけど、移動手段がなかったので中標津まで連れて行って頂いて。ちょっと心苦しかったですけどね…(苦笑)。でもそれが無かったら、スタートからつまずくことになっていたかもしれないですし、本当に助かりました。 既にあの頃が懐かしいです(笑)。
都会生活から変わった時間の流れ。
3ヶ月生活してきて、不便なことは特に感じていないですね。必要なもの、欲しいものがあればネットで買うことができますし、家から歩いてすぐにスーパーがあるので買い物も苦労しません。外は静かだし、穏やかな環境ですね。
人間関係は、まだ来たばかりなので構築していってる段階です。職場でも繋がりはできるんですけど、仕事ありきなのでまだ遠慮が出ちゃって(笑)。だからこれから少しずつ、距離を縮めていきたいなぁって。町内のスポーツクラブにも参加しているので、そういうところで新たな友達ができればと思っています。
来た当初から変わったことといえば、たくさん残っていた雪が溶けて牧草地にたんぽぽが「ポンポンっ」って咲いてきたこと。「うわぁ絵本みたい!」って感動しました。地元ではなかなか見れない光景なので、なんだか不思議な気分でした。
あと、自分の時間が多く取れるようになりましたね。やってみたいことがたくさんあるので、それに充てる時間が取れるようになったのは嬉しいです。
氷平線の魅力をもっと広めていきたい。
地域おこし協力隊としての初仕事は、野付半島でのネイチャーガイドの人員不足を解決することです。観光協会、観光開発公社、商工観光課の3者打ち合わせでその話を聞いたのがきっかけです。聞くと、募集をかけたり近隣の市町村にも声かけはしてるんですが、なかなか応募が集まらないということで。
それで「営業で身につけた情報収集能力が活かせるんじゃないかな」って思ったんですよね。さっそく企画書を作って提出したまでは良かったんですが、冬のガイドだけじゃなくて夏のガイドも足りていないということがわかって(笑)。でもせっかく企画したので、「まずは氷平線のガイドをメインに」と募集の企画を進めていこうと思います。最近は「学生を巻き込むのも面白いんじゃないか」と思って大学関係者の方にお会いしたりと、積極的に取り組ませてもらっています。
実際のところ私自身はまだ、氷平線を見たりツアーを体験したりはしていません。でもあの景色は野付半島でしか見れない景色だし、私が写真一枚で「ここに来たい!」って思うくらいの強い魅力があると思っています。それをもっと外にPRしたいですし、たくさんの方に来てもらいたい。氷平線の景色を活かした企画もしてみたいですね。
いま氷平線単体での入り込み数がどんどん伸びていて、昨年は約800人だった来場者数が今年は4倍の約3200人だったんです。それだけ多くの方の興味・関心を集めていることなんだと実感します。
ただ、全体ではツアー客がほとんどを占めているのが現状なので、今後は個人客を取り込むことにも観光協会として力を入れていけたらと思っています。それでより多くの観光客が野付半島・氷平線をきっかけに、別海町全体に来てくれるようになったらもっと良いですよね。
まだ来たばかりでわからないことだらけですが、少しずつ前進していたらと思います。
2018年6月20日収録インタビュー、撮影、テキスト:倉持龍太郎
提供写真:伊東桜