ほらり

國分知貴:若い人たちが広い視野を持つことのできる環境を。

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約12分

少年期から憧れた料理の世界へ。

國分知貴、昭和61年9月5日生まれの乙女座、血液型はO型、先日30歳になりました。中標津町地域雇用創造協議会で働いています。

生まれも育ちも中標津町です。小学校は町内の丸山小学校に通って、その後は中標津中学校に進学しました。中標津中学校からの進路先は生徒の九割五分が中標津高校です。僕ももちろんそうでした。中標津町では、中標津高校に進学するのがオートマチックなものなんですよ。一つしか無いですからね。そもそも高校を「選択」すること自体、感覚として持っていませんでした。北海道の地方ではごく普通のことだと思います。もちろん中には高校から町外へ出て行く強者もいましたよ(笑)。ごく一部でしたけど。

卒業後は札幌の経専調理製菓専門学校に進学しました。中学生の頃から料理人になりたかったんですよ。よくある話ですけど、母親が入院してたので自炊した時期があったこと、あとは釣りが好きで川で釣った魚をさばいて調理したりしたこと、それがきっかけなのかもしれません。専門学校では調理師科に所属していましたから、調理師免許を持っています。

自分の世界はもっと広がっているはず。

卒業後は札幌でシェフ見習いとして働きました。就職先は当時のハウス・ウエディングブームの火付け役になった会社。想像しうるガチガチに古典的なフランス料理をつくっていました。僕は新人だったんで、仕込みとかが主でしたね。でも会社がどんどん大きくなっている頃だったので、新人でも出張がとにかく多かった。各拠点人手が足りなくて、ヘルプで色んな所に呼び出されて一週間の出張が結局一ヶ月なんてこともザラ。

ゴリゴリのシェフが多かったんで、厨房内はホントに戦場ですよ。通し言葉やちょっとした会話にもフランス語を交えてくるものだから、頭と体が追いつかなかった。言うなればルー大柴さんのフランス語バージョンですよ。「Haricot vertをblanchirしとけ!(さやいんげんを下茹でしとけ!)」って。

会社のモットーは「1皿のクオリティを100皿に」。既製品を一切使わないので仕込みが大変でした。達成感はものすごかったけど、ひどいときは仕込みが終わるのが午前2時で、午前5時には出勤するってこともありました。

ただでさえハードワークなのに加えてフランス語の勉強、長期出張、厨房でミスをして怒鳴られ、謝って理由を言うとそれでまた怒鳴られ。常に緊張感があったから気を休める暇がなかったのかもしれません。それで精神的に少し病んじゃったんですよ。職場から逃げたこともありました。シェフとも揉めましたし、「とにかくここから消え去りたい」って。でも良くしてくださった先輩のことが好きだったし、怒られっぱなしは悔しいしで、歯を食いしばって続けました。

そうやって気付いたら後輩もできて、ようやく怒られることも少なくなった頃でした。ふと、自分の世界が「これっぽっち」な気がしたんです。厨房に缶詰な生活をしていたからか、視野が狭くなってたんでしょうね。目の前で起きていることが自分のすべてだったし、それが当たり前になってしまっていた。

─ここだけが自分の世界じゃないはずだ─

入社して一年半経った頃、最初の会社を退職しました。

働くのは生活のため?

退職後は、いまだったら「旅に出よう!!」とか人から「バカじゃないの?」と言われそうなことも考えてしまうし、本当にそうしてしまうかもしれません。でも当時はなんか……思えなかったんですよね。真面目だったんですかね(笑)。

その時は「料理を作る側じゃなく接客・提供の方もやってみたいな」と思って、ホテルのサービスマンのアルバイトに就きました。でもどっかで「生活の為には働かなきゃ」って気持ちの方が強かったんだと思います。そういう意味では視野がやっぱり狭かったのかもしれません。

サービスマンで半年ほど食いつないだ後は、ある人との出会いがきっかけで、スポーツ用品店の販売員になりました。大きい会社で、アルバイトでも成果が出せれば評価される環境だったんで頑張りました。自慢ではないですが、北海道の中で最年少チーフにまでなったんですよ。

-このままいけば店長、その次はマネージャーだなぁ。……あれ?-

急に先が見えた気がしたんですよね。それでなんか違うなぁ……って。その先の仕事が見えてるってことに刺激を感じなかったのかもしれないです。

「このままで本当に良いのだろうか」……って考えてたら「飲食をもう一度頑張ってみようかな」って。というのも、飲食時代の同期はどんどん別の仕事に就いている中、一人だけ料理の世界で頑張り続けてる友人がいたんですよ。彼がいた店は店内もオシャレな雰囲気。やっぱりレストランって表面的に見てると華やかで。

それがきっかけで「ああ、やっぱりもう一度飲食業界に戻りたい。自分のお店を開きたい!」と再び思うようになりました。飲食から離れて結構経っていましたし、そういう目線から見ていたのかもしれませんが。

心の人脈を大事に。

販売員として二年と少し働いたあと、その友人が働いていた会社に入ることにしました。いわゆるベンチャー企業で、入社当時はまさに成長の真っ只中。僕はレストラン部門の店長業務を任されて、店舗運営に奮闘し、自分と向き合う暇もなく朝から晩まで働きました。

企業の成長過程を肌で感じることができ、とても勉強になる環境ではあったのですが、ある日、僕の中で糸が切れてしまった瞬間があって。それは社長との面談でのこんなやりとりがきっかけでした。社長が「人生において大事な人脈ってどんな人脈だと思う?」と聞くんです。僕は「どんな分野でも心が通える人。そういう人との繋がりが大事な人脈だと思います。具体的に今の僕にしたら先輩や友人の○○さんでしょうか。」と。

すると「人脈っていうのは例えば弁護士や、企業の社長、それから……」といった、まるでビジネス系啓発本に書いてる内容を話しました。もちろん考え方は人それぞれですし、大事なのはわかりますが、僕には理解に苦しむ返答でした。

このことは今の自分にとっても転機になっています。「価値観」や「考え方」の方向性を決める、そして「生き方」を考えるキッカケになりました。

ニセコ町。

結局、学校を卒業して就職して働いてお金を稼いで……っていうセオリーが自分の中では何か違ってたんでしょうね。それで一度、正面から自分に向き合って「自己分析」してみました。遅いですよね(笑)。

子供のころ何が楽しかったのか。心の奥で押し殺してるけどくすぶっているのは何なのか。これまでの経験や理屈、しがらみから「こうしなきゃいけないだろうな」って考え方はせず、「本当は何が好きなの?」とシンプルに、フラットに自分に問いました。そしてそれは「釣り、川遊び、スノーボード、自転車、山の中で基地作り」など「外で遊ぶこと」だったんです。

それからもうワクワクしちゃって(笑)。ニセコなら札幌からも近いし、その条件アリじゃん!って(笑)。勢いでニセコのアウトドアカンパニー『NAC(ニセコアドベンチャーセンター)』に電話しました。

その後、面接することになったのはいいのですが……。担当者が「いまちょうど飲食部門のマネージャーがいないんだよ、やってもらえないかな?」と(笑)。もうこれまでのこと全部忘れてラフティングガイドになりたかったのに(笑)。

ともあれ採用して頂けて、飲食部門のマネージャーとして仕事をすることに。でもせっかく入ったんだからやれることはやっておきたい! 会社と交渉して二年目にはラフティングガイドもやらせてもらえる事になりました。

「生き方」と「働き方」。

ニセコ町って北海道でも異質な場所なんです。外国人が多くて、街並みも外国みたい。日本人も、全国いろんなところから来た人ばかりが集まっていました。南は沖縄から東京、奈良など……。なんだか「独立国家」って感じでした。

いる人はみんな自然やアウトドア遊びが好きっていうのが共通点でしたが、各々が何かしらの目的を持って来ているんですよね。いろんな所から来た、いろんな人と話して、いろんな考えを毎日聞きました。いうと「いろんな人」しかいないんですよ(笑)。

だからNACに入ってからのニセコ町での生活で、本当に視野が広がったと思います。それまでとどう変わったか一言でいうと「これまでの物差しがぶっ壊れた」。

中でも一番印象的だったのは……多すぎて絞れませんが、最初に衝撃を受けた人は「二日酔いでバンズを切る男」(笑)。朝出勤すると「お”……お”はょう”……」って言いながらハンバーガーのバンズ一つ切るのにむちゃくちゃ時間かかってるんですよ(笑)。今まで「きちんと」仕事する人にしか会ったことがなかったのか「ふっざけんなよ!ここ仕事場だぞ!!」って最初思いました(笑)。

寮だったシェアハウスでも、ルームメイトのブラジル人と、会ったこと無いタイプの日本人女性に驚かされてばかりでした。「自分がこう生きたいからこう生きてる」って人が本当にたくさんいて。

ガイドのお客さんも、住んでる人も多種多様。本当にニセコ町・NACでの生活・経験が無かったら、こんな人・考え方があるって知らずに生きてたかもしれないって思います。いまの自分は無いって。そのぐらいニセコでの生活は自分に影響を与えました。

右側奥から3人目が國分さん

北海道をあったかく『ATTAKAIDO』。

ニセコの生活はすごく好きでした。ワークライフバランスがしっかり取れてたんですよ。マネージャー職としての苦労もありましたが、それも含めものすごく充実した毎日でした。

でも、仕事と給与面のバランスなど、段々と「現実的な」将来のことを考えるようになりました。「目の前にある今の充実だけでいいんだろうか……」。それでこの先どうしようって考え始めた頃です。札幌の飲食時代に出会って仲良くさせていただいていた方から連絡を頂いたんですよ。「自分たちで事業を始めようと考えているんだ。知貴も一緒にやらないか?」と。札幌の円山で飲食店を出そうって話でした。

0から1を作る仕事に関わってみたい、仕事仲間も気心知れた元職場の先輩。やってみよう、チャレンジしてみよう!と参加することにしました。でも資金繰りが上手く行かなくて、出店の話はボツに。そして計画を変えて、別の事業を模索した結果生まれたのが『ATTAKAIDO』です。

「北海道を暖かく」をコンセプトに、1次産業生産者の商品を東京に売り出していこう、というのが事業内容です。僕がいた頃は立ち上げ段階でしたから営業代行、販路作りというのが基本でした。それをwebで発信したり、東京のお店に卸して、食材を紹介して……ってことをひたすらやってました。

ATTAKAIDOが生まれてからしばらくはニセコにいましたが、NACを退職した後はアルバイトで生活費を稼ぎながらひたすら動き回りましたね。事業が回るまではどれだけ動いても収益は出ませんから、今考えると楽しく……はなかったですが(笑)。どちらかと言うと辛かったかも。

ATTAKAIDOはすごいやりがいがあったけれど、資金がない中で事業を進めて、バイトもしてだったので、とにかく生活するだけで精一杯だったんですよ(笑)。

そうやって動き回っていた頃に、昔からずっと親しくしている友人からいまの仕事の話を聞いて、NACやATTAKAIDOでやってきたことが活かせるんじゃないかなって。内容的にこれまでやってきたことと関係も無いことだったらきっと断ってたと思います。でも観光モニターツアーの開発や食の商品開発もある、地域の生産者とより近い場所で関われる、それに行政が関わる仕事をしたこともなかったから良い機会だと思ったんです。

ATTAKAIDOの頃に頑張って動いたこともあって、いまでも別海や中標津町の多くの生産者とつながることができています。どこかでこの2つの仕事は繋がってるんですよね。

ただ、予想はしてましたけど、今の仕事でぶち当たった壁はやっぱり「人」ですね。

行政と関わる環境で働いたことがなかったので、仕事のスタイルや物の考え方が異なること。ニセコ時代に関わった人達の自由な考え方に影響を受けているせいもあるのか、大げさに言うと”カルチャーショック”は頻繁にあります(笑)。でも、救われているのも「人」なんです。商品開発においては、地域の事業者さんとの繋がりが何よりも大事なことだと思っています。そして、その想いが通じたり、励ましの声をいただいたり、期待されたり。そんな些細な出来事が本当に嬉しいし、モチベーションにも繋がっています。

帰ってきて気付くんですが、地元のこともなんだかんだあんまり知らなかったんですよね。今回の事業がキッカケで「人」も「歴史」も、段々理解できるようになってきたので、本当に良かったと思っています。

とはいえ今の仕事も任期があって3年間。今後のことも当然視野に入れないといけません。

町のパワーは人のパワー。

30代に突入して、やっとぼんやりわかってきたんですけど、自分は「需要があるからやろう」ってガラじゃないなんですよ。自分のやりたいことをやってそれを残したいって気持ちのほうが強いです。それはきっとニセコでの生活も強く影響していると思います。

ただ、そうはいっても町を知れば知るほど必要とされることはたくさん出てくる。そこで「やりたいこと」と「必要とされること」の2つの中間を行けないかなと。

いま考えているのは、中標津町の若い人たちが広い視野を持つことのできる環境を整えること。自分がそうだったんですが、「もっと若い時にいろんな情報をもってれば価値観が変わったかも」って後悔したことがあるんです。若い人たちにはそんな想いをしてほしくなくて。

そこでコミュニティの場を作れないかなって。例えばですけど、飲食店兼ゲストハウスみたいな場所を設けて移住者や住民をホスティングするんです。そこに来ると多様な人達が集まっていて色んな話ができる、視野を広げるきっかけができる、そんな場所です。田舎ってコミュニティが狭い分、視野も価値観もどうしても狭くなってしまいがちなんでですよね。

だからそんなコミュニティがあれば「いいな」って食いつく人もいると思うんです。実現できれば住民、若者等の「個」のパワーが付いてって町も盛り上がるんじゃないかなと。勝手な想像ですが、中標津町は近いうちに変革期を迎えると思っていて。それに自分の考えていることが合わさったら町も変わっていくと思うんです。

とまぁこんなことを考えてはいますが、今はとにかく自分の仕事で結果を残すことが最優先です。この先は自分のやりたいことをやるのに、なんの結果も出していない人なんて誰も信用しないでしょう?(笑)。

2016年10月23日収録
インタビュー・撮影:廣田洋一(過去の写真の提供は國分知貴)
テキスト:倉持龍太郎
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