「面白そうだから」行ってみる!
地域おこし協力隊として別海町役場の観光課で活動しています、菅原銀二郎です。平成5年生まれの22歳。出身は小樽市です。
小学校は小樽市内でしたが、中学からは札幌にある私立の学校に通うことにしました。札幌のことはあまり知りませんでしたが、何か面白そうだと思ったんです。父も「面白そうだったらやれば。勉強しちゃいなよ」と言っていましたね。そのまま江別市にある付属の高校に上がったので、6年間、小樽から札幌や江別まで鉄道で2時間かけて通っていました。部活をやっていたときなんかは朝4時半に起きて始発列車に乗り、帰りも夜9時や10時というような生活。それでも、同じような時間に列車通学していた友だちがいたので、辛くはありませんでした。
大学は、地元の小樽に戻るか別の土地に行くか、いろいろ考えたのですが、付属の大学が京都市にあったので、そちらを選びました。京都という土地が面白そうで、住んでみたかったんです。そこで、初めての一人暮らしです。もう最初は家事は何もできないし、どんな家具が必要かもわからないんですよね。母は、鍋やフライ返し、布巾、ラップなんかは用意してくれたのに、家電や家具は「自分でどうにかしなさい」って(笑)。ベッドもないから、初日はゴミ捨て場から段ボールを拾ってきて床で寝ましたよ。近所には学生が多かったし、遊ぶには不便しない町だったので、楽しかったです。
大学では政策科学部で、主に都市計画や地域おこしについて学んでいました。さらに言語学や文化人類学、社会学といったようなことも勉強しました。
自分のルーツ、ロシアへ。
ところが、4年間ずっと京都にいたわけではありませんでした。2年生の後期になって、京都での学生生活にも飽きが出てきた頃のことですが、ふと、母がロシアの大学について話していたことを思い出しまして。母はサハリンの出身なので、息子である僕にはロシアに住み、ロシアの大学に入るという道が、普通の人より楽に選べたんです。母がロシア人なのに、自分はロシアのことをあまり知らないというのが心に引っかかっていましたし、せっかく行ける身なのだから行きたい! と思い、すぐに母に電話をして、どうしたらロシアの大学に行けるか聞きました。で、電話した次の日にはもう小樽に帰ったんです。父にも真面目に「ロシアの大学に行ってみたい」と話したら、「行っちゃえ行っちゃえ」って。手続きしていく中で、ロシアの大学の学長さんに「日本でこういう勉強していました」という書類を見せたら、それを加味して「じゃあ、あなたは1年くらいで卒業する手続きでいきますか」ということになりました。
現地では言語学のようなものを勉強していました。「のようなもの」というのは、「○○学部」の○○の部分が、難しくてうまく日本語訳ができないんですよ。僕が小さい頃、母は日本語が話せなくて僕にロシア語で話しかけていたということもあり、ロシア語は話せました。ただ、会話はできても読み書きができないんですよ。読むのは最初の1週間くらいでできるようになったんですが、書く方は時間がかかりましたね。文法や言い回しなどを半年くらいずっと勉強していました。
就職、そして転機になった友人の言葉。
ちょうど卒業する頃、父から電話がきて「お前に仕事がある」と言うので、帰国しました。札幌市にある父の知り合いの水産会社だったのですが、人手不足でもありましたし、父としては「修行してこい」ということだったんでしょう。家が同業種だったのである程度勝手はわかっていましたし、父もちょくちょく「お前に仕事を用意してあるぞ」という雰囲気を醸し出していたんですよね。父はいっつも楽しそうに仕事をしていました。帰宅して、「あ~疲れた~。楽しかった~!」って言っているような姿を見て育ったというのもあって、そこで働くことは全然苦ではなかったですね。
就職先の会社では、小売りから商社まで幅広い顧客を持っていて、僕は新規営業の仕事をしていました。景気がよかったので、とにかく仕事は忙しくて大変で……でも楽しかったですよ。取引先に会うのも、接待も、過密スケジュールで時間に追われるのも、「仕事している!」って感じで充実していました。
そんなある日、転機がありました。大学時代の先輩で、もともと持病があって日頃から「俺は体がこうだからたぶん長く生きられない」って言っていた人がいたんですが、その人が去年(2015年)の10月に、本当に亡くなってしまったんです。その人は僕に「お前はこういう(活動的な)性格なんだから、絶対自分が好きなことをしろよ。『ここで落ち着こう』っていう生き方はやめろよ。人生、一度きりなんだからな」と言ってくれていたんです。
ちょうどその頃、公務員になった友人に「ロシア語やロシア文化に関する知識を活かせる、面白そうな仕事があるよ」と聞かされていたんです。なかなかなれなさそうな専門職で面白そうだし、先輩の言葉も思い出して、「やってみるか」と。自分のことを考え直すときが来たと思いました。
試験勉強か、別海行きか!?
仕事を辞めて専門学校に通いながら、国家公務員の試験を受けるために勉強を始めました。小学生以来の久しぶりの受験勉強ですよ。学校に通うためには学費や生活費が必要だということで、いろいろアルバイトも探していたのですが、それが別海と出会うきっかけでした。
よく、アルバイト情報サイトで「今、いちばんアツいバイト!」というようなページがあると思うのですが、ふとそこに「地域おこし協力隊」というのが載っているのを見つけたんです。「こういうことをします」という概要や条件を見ていったら、超面白そうなんですよ! と、思いつつも、「いや、自分は今、勉強をしなきゃいけないんだ。あぶないあぶない……」と。でも、「やっぱり応募だけしてみようかな」と思って申し込んだら、「面接に来てください」って、担当者から連絡が来たんです。
面接に行く前は、「僕はやることがあるから……。とりあえず話だけでも……」なんて思っていたんですけど、実際行ってみたら自分の中でスイッチが入ったようで、「せっかくここまできたんだ。絶対うかってやるぞ!」って(笑)。別海の副町長や、観光課長に「大学でこういうことをしてきました。国際事情や、その背景を知ることも好きなんです!」というようなことを熱く語りました。話をじっくり聞いていただけたし、いい印象を持ってもらえたという自信はありました。
採用決定! 0.5秒で決断!!
後日電話で、(採用を前提として)「別海町に来たいですか?」と聞かれたときに、反射的に「行きたいです! 行きます!」って言い切っちゃったんです。考えた時間は0.5秒程度だったと思います。よくあるのは、「一旦、考えさせてください」とか「少し時間をください」っていう返事だと思うんですけど、僕は「これを逃したらもうチャンスがないんじゃないか」という予感がしたんですよね。「ごめんね~、もう別の人が入っちゃった」って言われたら嫌だなって。
父にこのことを話したら、やっぱり「おっ、面白そうじゃん。行っちゃえ行っちゃえ」って言っていました。母は、父が事業をしていることもあって結構苦労をしてきたので、「銀ちゃんは公務員がいいんじゃない」というようなことも言っていましたけど、今は応援してくれています。妹も、「別海ってどこ? へ~広いね~、頑張ってね~」って。うちの家族はみんな自由なんですよね(笑)。基本的に放任主義でしたし、「欲しいものがあるなら自力で手に入れてみな」という感じなんです。
道東=別世界の風に吹かれて。
こうして別海行きが決まりまして、3月26日に引っ越す段取りもできました。その日、(最寄りの空港の)中標津空港のゲートを開けたとき、風がふぁ~っと吹いてきて、気持ちいいな~と思ったのを覚えています。新千歳空港の文明的な印象の建物から、一瞬で自然の風景の中に……どこでもドアを開けたみたいな感じですよね。
同じ北海道内なんですけど、札幌近郊と道東(※1)では全然感覚が違うものなんです。「道東に行けば、別世界!」みたいな。札幌の人にとっては「知床(斜里町・羅臼町)に行くか、海外に行くか迷うな~」くらいの距離感です(笑)。僕は高校生のときに一人旅で網走市に行ったのが道東初体験でしたが、そのときも「非日常的な体験をしたい!」と思っていましたもんね。
(※1)北海道東部。おおむね網走・十勝・釧路・根室地方のこと。
地域おこし協力隊、本格始動!
引っ越しを終え、生活基盤を整えたら、さっそく町役場の観光課に配属されました。「まずは別海町のことをいろいろ勉強して知ってください」と言われたので、とにかく最初の1週間は毎日「外勤命令」という書類を提出しまくって、「別海十景(※2)に行きます! 野付半島に行ってきます!」という感じで、ひたすら町内を見て回りました。
(※2)別海町内でも特に風光明媚な10のスポット。
今は、民間のアドバイザーさんを交え、観光協会と共同で別海町のブランディングについて企画しています。ブランディングとは、いわば「別海町といえば、○○!」の、「○○」にあたること・ものを確立しようという活動ですね。アドバイザーさんが作ってくださった3年先、5年先の計画……いわゆるロードマップがあるので、そこに新しい企画やPR案を付加していくんです。0から1を生み出して回転させていく、スタートの段階です。
この企画をやるにあたって、「地元の人だけじゃなく、外からの意見も入れましょう。外からの意見を入れるのだったら、『地域おこし協力隊』というのを活用しましょう」……ということで、僕が採用になったわけです。自分が、プロジェクトのスタートメンバーとしていれるってわかって、今とても楽しみです。もともと、「何か新しいことを始めようぜ!」ということをしたいタイプの性格なんです。
大学時代も地域再生の成功事例、失敗事例などということを学びましたけど、「じゃあ、これが正解ね」っていうものなんて無いんですよね。今はまだ、役場の人やJAの人、お店で知り合った人、一部の酪農家さんにお話をきいたくらいですが、これからももっともっと実際に産業に携わっている人たちにお話を聞いていきたいと思っています。観光に関して、どんな案なら受け入れてもらえるのか、どこまでだったらいいのか、とりあえずお互いの合意形成をしていかないと、何も始められないですもんね。
どんどんつながる『明かり』の中心に、自分がいる。
正直、「どこで」地域おこし協力隊をやるかっていうのはこだわっていなかったんです。たまたま募集していたところが別海町だった。せっかくここで採用になったのだから、よし、頑張ろう! という感じですね。
別海に来てから、毎日楽しいことばかりで、毎日新しいことが起きています。札幌にいたときは、周りはみんな他人なんだから、「新しい人に会う」っていうのは当たり前のことなんですけど、こっちで「新しい人に会う」っていうのは、とても新鮮な感じがするんですよね。人と人とのつながりが濃い社会の中で、ある1人に知り合うと「あ、誰々さんの後輩だ」とか、「誰々さんとは仲良しだよ」とか、どんどん芋づる式につながっていく。一か所に明かりが点くと、連鎖的にパッパッと明かりが点いていって、それがどんどんつながっていくというイメージですね。その明かりがたくさん点いている真ん中に、自分がいるような気持ちになれるんです。それが心地いいですね。
今、全くマイナスの感情が無いんです。しんどいことが全くない。これから企画も案もどんどん出していって、周りの人に「頑張ってくれたよね」って、少しでも思ってもらえたらいいですね。そして、最終的にバーンと(地域おこしになったという)花火が打ち上がるのを見るまでは、契約期間の3年に限らず、一緒に走っていきたいです。
2016年4月17日収録インタビュー・テキスト::佐藤陽子
撮影:國分知貴