ほらり

神田あかり:離れてもまた戻ってきたくなる町。

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約8分

道産子ハーフの新潟人。

標津町地域おこし協力隊の神田あかりです。1991年7月11日生まれの25歳。生まれは母の実家の石狩市で、生後間もなく新潟に移りました。実は北海道産なんですよ。年に一度は、祖父母に会いに行っていました。

育ったのは新発田(しばた)市で、家の周りが田んぼだらけの町です。夜寝る頃にカエルがうるさいんですよ(笑)。市内に新発田城があって、てっぺんに鯱が三匹並んでいます。普通は二匹らしくて、全国に珍しいみたいですよ。

小学生の頃は髪もすごく短かったし、気が強い方だったから男の子と仲が良かったです。一緒に田んぼでおたまじゃくしやザリガニを捕ったり、用水路で遊んだり自転車に乗りながらチャンバラしたり(笑)。女の子グループが苦手だったんですよね。夜8時には寝なさいっていう家だったからドラマとかバラエティー番組の話に付いて行けなくて。そもそも家ではテレビを自由に見せてもらえなかったので。そういう環境で暮らしてたから、「ゲームやろうぜ!」って感じの男の子グループの方が入っていきやすかったんだと思います。

中学校は村上市にある県立の中高一貫校に入学して、電車で通学しました。学区内の中学校では父親が働いていたから行きたくなかったんですよ。なんかあったら全部バレちゃうし、親がいるとちょっとやりづらい気がして(笑)。

まだできたばかりの学校だったので生徒は少なかったです。足が遅いのを克服したくて陸上部に入部したんですが、部員は3人。「高校と中学合わせて6年間」って考えの学校で、進学試験は無し。高校1年生のことは「4年生」って呼んでいました。高2は5年生、高3は6年生。「生徒会も中高一緒」っていうちょっと変わった学校でしたね。

だから中高の交流が普通にあってお互い顔も知ってるので、高校の先輩のファンクラブができてたり(笑)。自分が高校にあがった時、同級生が中学生にキャーキャー言われてるのを見てるとそれはそれで面白かったです。

北海道に住みたい!

年一回は北海道に行っていたので、小学校の頃から「いつか北海道に住むぞ」って決めていました。ただ、祖父母が自然の中で自給自足生活をしているのを見てたので、子供心に北海道はそういう所だと思っていました。船で海を渡って、車で寝てたら北海道に着いてるので規模感もわかってなかったですね(笑)。

大学は札幌に出て北海道大学の理学部生物学科に入学しました。都会に来て感じた違和感は、寝る前に虫やカエルの鳴き声ではなく車の音が聞こえたことです。でも、授業や課題で忙しくしてるうちに生活には慣れていったので、都会に馴染めないとかは無かったと思います。

サークルは演劇サークルに入っていました。そういえば高校の時も、文化祭で友達と演劇やってたんです。「オバデレラ」っていうシンデレラのパロディをやりました(笑)。魔法使いが、間違ってシンデレラをおばあちゃんにしちゃって、掃除婦としてお城で働くっていう話で(笑)。友達が遊びで作った「オバデレラの歌」っていうのを演劇でやったんですよ。バカな事やってたなぁ。

卒論では「ミジンコのオスが生まれる条件」について研究しました。ミジンコって大半は雌で、稀にオスが生まれるんですよね。昼夜の長さを変えた環境を作ったり、グループごとに違う餌をあげたりしてどの条件が有効なのかを探るという。オス・メスの数は、顕微鏡で見ながらスポイトで採取して数えるんです。ただ、研究自体はどうでも良い結果しか生まなかったです(笑)。

餌に健康食品のクロレラを与えていたんですけど、普通はクロレラも育ててそのままを与えるらしくて、そのことに教授が驚いたんですよ。「こんなやり方する人はそうそういないぞ」って研究結果よりも手法に興味持ってくれて卒業させてもらえました。

院生活中断、やりたいことはやれるうちに。

卒業後は大学院に進んで、「科学を社会の中でどう使うか」などを研究する科学技術コミュケーションを専攻しています。「しています」っていうのは協力隊になるために休学しているんですよ。単位はもう取得してあるので、あとは論文を出すだけだったんですが、その前に就活がはじまったところで、よくわからなくなってしまって。自己分析もやったんですが余計に考え込んでしまったんですよ。

最初は雑誌・新聞で生物関係の物書きか、環境系のコンサルタントを受けて、選考が進んでいるところもありました。でも「これで本当にいいだろうか」って感じ始めて、「北海道の田舎に住みたいなら、とりあえず一度住んでみればいいのでは」って考えたんです。ちょうどその頃、「地域おこし協力隊」の制度を知って、これに応募しようと。

でも、それまでまちおこし的な活動に関わったことはあまりなくて、その時は、大学時代にボランティアで子供たちのお世話や理科教育をやったから、傲慢にも「私も教育分野ならできるなかな」と考えて。バカヤロウ! と今は思うんですけどね(笑)。

ともかくそういう教育関係の仕事をさせてくれる自治体を探していたところ、標津の協力隊募集を知りました。子供の頃から憧れていた、北海道の田舎で生活できるし、業務内容も教育系で、札幌から遠い。どうせなら全く知らない場所に行ってみたいというのもありました。道東は旅行でも行ったことが無かったですし、どんな場所なのか気になって、一度下見に行くことに。

地図でしか知らなかった場所、雄大な自然。

中標津空港をから標津までレンタカーで行きました。雪が少なく鹿もいませんでしたが、免許取ってから3回目の運転だったのですごい怖かったですよ(笑)。

町に着くまでは車の運転もそうだし、祖父母の住んでる地域みたいに「隣家まで何キロ」っていう環境をイメージしていたので結構身構えてました。でも来てみたら全然そんなことなかったです。徒歩圏内にコンビニがあるし、中標津まで行けばユニクロもホーマックもあるし。イメージが極端だっただけかもしれませんけど。

その日は羅臼との境目にある崎無異(さきむい)の「モシリバ」という宿に泊まりました。今だから言えるんですけど、崎無異って役場から車で15分以上かかるんです。地図で見ると、そう遠くは見えなかったんですけど。あのとき対応して頂いた役場の方に「町中にも宿あるのになんで崎無異だったのよ!」って今でもいじられます(笑)。

滞在中に野付半島に行きました。高校の時に地図を見て場所は知ってたんですけど、当時は「ここは一生行かないだろうな」って思ってました(笑)。標津サーモンパークにも行きましたね。ポー川自然公園は、標識は見えたんですけど曲がる運転技術が足りなくてその時は行けませんでしたね。修羅川を渡って小高い所を上りきったところで見た景色は本当にキレイでしたね。「海があって平原があって、川を超えると山がある」という位置関係が地元に似ていて親しみも感じたんですよね。「ここに住もう!」と決めました。

ポー川は湿原で、その奥の山に1万数千年前の遺跡があるんです。夜行くとコウモリがいるし、熊もいます。水がキレイで蛍も見れますよ。子供たちにも、日常的にこういう歴史に触れてほしいなと思うんですけど、いかんせん市街から遠いのでなかなか難しいんです。なので遺跡は無いけど、町中で標津の歴史の勉強ができるようなペーパーを作りたいなと考えています。

2年目は小中学生を対象にした牧場での体験学習を企画できたらなぁと。授業で漁場や加工場の見学できるんですが、牧場のほうはお話を聞くだけなんですよ。せっかく酪農も盛んな地域だし、牧場の中まで連れて行ってあげたいと思っています。

プライベートも充実してますよ。「しべつ未来塾」という、標津町にUIJターンした若い人達の団体があるんです。そこの皆さんと飲みに行ったり、生まれたばかりのお子さんと遊んだり。まちづくりに近い活動もしますし、商店街の朝市でお店出して皆で焼きそば売ったりもしています。冬まつりで雪像を作ったりプロサッカー選手を呼んで、サッカースクールをやったりもしていて、若い人が楽しめる環境づくりに積極的に取り組んでいますよ。

いまは、ゆるキャラのラインスタンプを作る話が進んでいますね。標津サーモン科学館の「いくらちゃん」というキャラなんですけど、まる3つで書けるから汎用性が高いと判断して(笑)。町民の皆さんから絵柄を募集しています!

地域に助けられた移住生活、心強い仲間たち。

未来塾の方々が仲良くしてくださっているので、移住して孤独や寂しさに苛まれることがなかったしプライベートも楽しく過ごせてると思うんです。心強いです。あと、去年の冬まつりに半分仕事で出かけたら、知り合いの出していたお店に捕まって手伝うことになったんですよ。そこで蕎麦とうどんを作って。そういうこともあるから楽しいです。

後でわかったことなんですけど、誰かの親戚でも友達でもないから逆に周りの方々は話しやすかったらしくて。神田って苗字もこの辺りでは聞き慣れないから、早い段階で覚えてもらえたことも良かったのかもしれないですね。

よく行くお店は「しれとこ食堂」ですね。塩ラーメンがおいしいんです。締めのラーメンでやっているらしいので、お店が始まるのは夜なので町外の方がなかなか来れないのがもったいないと思うくらい。休みの日は車で色んなところへ出かけます。来た当初はまだ運転に慣れてなかったから、雪道で死にかけたことがあります。3回くらい(笑)。滑って車が左右に思いっきり振れちゃって吹き溜まりに突っ込んだんですが、スコップで雪かきして自力で脱出しました(笑)。

パワーアップしてまたここに戻りたい。

生活がすごく楽しいので、3年経っても住んでいたいと思っています。大学院の休学は2年期限なので一度札幌に戻ることになると思いますが、卒業したらまたこの町に戻ってきたいと思ってます。高校生をサポートする協議会を立ち上げる話もあるみたいですし、戻ってきたらまた標津町の教育事業に携わっていきたいです。

そのためには私自身、教育素人なのが身にしみるので、しっかり勉強してパワーアップしなくてはと思う次第です。

2017年2月15日収録
インタビュー・撮影・テキスト:倉持龍太郎(インタビュー中以外の写真の提供:神田あかり)
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