押田賢二:自分がいる環境への感謝を忘れちゃいけない。

 

プロフィール 押田賢二/46歳/別海町在住/神奈川県出身/1993年移住/(有)オシダファーム代表

好景気真っ只中の学生時代。

出身は神奈川県です。別海に来る前は、高校で畜産科に通って農業について学び、卒業後は農業研修生として一年間ブラジルへ行っていました。僕らが高校生だった頃はバブル景気が続いていた時代で、テレビで見る華やかな世界や遊びに学生誰もが憧れて、「給料もらってマハラジャ※に行くんだ!」とか「海外旅行にバンバン行くぞ」とみんな言っていました。だから働くことが嫌だとか、社会に出たくないなんて微塵も思いませんでしたね。業界問わず一流企業へ就職できたし、高卒でも大卒でも3社4社から内定をもらうなんてことはザラで。むろん、帰国して就職先が見つからないなんてこと、想像もしていませんでした。だからこそブラジルに行けたんですよ。「仕事なんていくらでもある」そういう時代でしたから。

*当時日本中で大ブームだったディスコの名称。

それが一年間の研修を終えてブラジルからの帰る飛行機の中、誰かがどこから聞いてきたのかわからないけど「バブルってのがはじけたらしい」と。当時は「好景気」という呼び方だったので「バブル?なにそれ?泡?」なんて呑気なこと言ってましたね(笑)。

バブル崩壊と就職難のダブルパンチ

帰国してみると、ほんの一年留守にしていただけなのに状況が全く違っていて驚きました。母校の高校に「求人は来ていませんか」と聞いたって「こんな時代にあるわけない」と。ブラジルでポルトガル語を身に付けたので、それを持って面接に行っても当時の企業が欲しがっていたのは英語を話せる人材。いくつも面接には臨みましたが、就職は決まりませんでした。

でも仕事先が見つからないからとはいえ、家でダラダラしてるわけにもいかないので、しばらくはセブンイレブンでアルバイトをしながら就職活動を続けていました。

そんな中、ある時バイト先のパートのおばさんから「北海道で牧場の手伝いをしない?」と声をかけられたんです。どうやら「パートのおばさんの子供が通っている、習字教室のおばさんの実家の牧場」での手伝いという話でした。遠いところからグイッと引っ張られた感じです(笑)。当然牧場の方とは面識はなかったので一応会って話はしたんですが、農業には高校・ブラジルで触れているわけだし、「仕事があるなら」とその場で返事をし、2日後には出発しました。当時、まだ20歳だったし、手伝いも1〜2年という話だったんです。「2年も経てば景気も良くなってるだろう。22歳で東京に帰るんなら大学に通ったと思えばいいかな」と思っていた。だからこそサッと行動に移せたのはあったと思います。

そんな感じだったので、当初は「北海道に来たのはなにか夢があって」という感じじゃなかった。将来ここで暮らそうとかも思っていなかったし、2年後には景気も良くなってるだろうから関東に戻るつもりでしたから。

好きな仕事、充実した二年間

牧場は別海町の上風連(かみふうれん)にあって、従業員は夫婦二人と僕とで三人。作業はだいたいのことを経験済みだったので、仕事で苦労したり悩んだりすることはありませんでしたね。家に住まわせてもらえて、ご飯もいただけていたので不満は何もありませんでした。お給料だって、いま思えば決して高くはなかったけれど、社会人を経験してない若者だったから万札がもらえるだけで嬉しかった。

二年が経過する頃には、「まだここにいたいな」という気持ちが芽生えていました。

関東に戻らなかったのは景気が中々上向かなかったのもそうですが、根本的にこの仕事が好きなんだと思います。今でもそうなんですが、「朝起きるの嫌だなぁ」という日だってもちろんあるけれど、全然「苦痛」じゃない。酪農をやっていると、日々やること・計画があって、そのサイクルを毎日しっかり回してくことに充実を感じるんですよ。だから休みがないことに対する不満もない。むしろスタートからそういう生活をしてきているので、休みがあると逆に困っちゃうんです。「一日も休んでなにすればいいんだろう」って(笑)。ヘルパーさんにお願いすることもあるけど、体が慣れてしまっているので結局いつも通り午前4時に目が覚めて、仕事のことが気になってしまうんですよ。「あれ大丈夫かな、これ大丈夫かな」って心配にもなってしまうから、結局自分でやってしまうことも多いんです。

その後は役場の方から紹介していただいた中春別地区の牧場で二年間ほど働かせてもらいました。前の2年があったからある程度一人でもできたし、ちょうどその牧場の転換期でつなぎ牛舎からフリーストールにするとか、肉牛飼育をやめて搾乳一本にするなど。忙しく過ごしていました。

新規就農へ

別海町には新規就農希望者が入ることのできる研修牧場があるんですが、ちょうどできたばかりの頃でした。でも独り身だったんで入ろうとしたら断られちゃって(笑)。すると知り合いが別海で新規就農して、一人でも新規就農できるよって話を聞いて。ちょうど両親も北海道に移住してくる頃だというのもあって、別海に移動して離農跡地を買い取って就農しました。離農後しばらく経っていたので、牛舎などの上物は揃ってたけど、ミルカーなどの施設機械はほぼ壊れてしまっていたので、買って。あとはトラクターなどの畑仕事で使う機械も一通り揃えました。

でも新規就農とはいっても、許可が降りて牛が飼えるようになるのは4月に就農してから半年くらい先の話なんです。最初に入れるのは初任牛なので、お乳を絞れるようになるまではさらにその2ヶ月後とか。だから最初は草の収穫だけ。無収入なんです(笑)。でもその期間の補助として、町から就農準備金200万円が出るので、しばらくはそれで生活しながら牛を受け入れる準備を進めていきました。

不安が無かったといえば嘘になるけれど、当時は牧場経営に対して自分のポリシーがあったから、それでうまくいくと思っていたんです。若かったんでしょうね。周りは色々とアドバイスや忠告をくれたのに突っ走ってて。

結果的には、のちのちそれが失敗して負債が増えちゃった。当時はもっと人の話をしっかり聞いておけばよかったと思うなぁ。自信があったんだろうねぇ。「このやり方でうまく行くに決まってる」なんて言って、「これができれば俺の理想の酪農経営が実現するんだ!」とか大きなこと言ってたのに。それこそ「私、失敗しないので」って感じで、どこ行っても偉そうなこと言ってたねぇ(笑)。思い出しても恥ずかしいことしてたなぁって(笑)。

嫁さんは大阪出身で、25歳のときに「菊と緑の会※」を通じて知り合いました。最初はいろんな人に行け行けと勧められたから仕方なく参加したんです(笑)。すごく気が合ったんですよ。そのあともやり取りを重ねて、一年後に結婚しました。大変な時期はあったけれど、嫁さんと出会って一緒に一生懸命にやってくれたからここまで来れたと思うと、本当に感謝です。

※友好都市の枚方市から別海町に嫁いだ女性が、里帰りの際に枚方市役所を訪問し、「酪農の楽しさと後継者の嫁不足」を訴えたのがきっかけとなり、昭和59年に初めての交流会となる「菊と緑の会」を開催。酪農青年と独身女性の交流会は毎年開催され数多くのカップルがゴールインしている。

うちには娘が二人いるけど、「牧場を継いでもらいたい」って思ったことはないです。仮に男の子がいたとしてもそう。自分が好きで始めたことなのに、そこに子供を巻き込むっていうのは違うと思っていて。本当に本人がやりたいんだったらまたそれは考えるけど、「継ぎたいから牧場をください」っていうのはダメ。やりたいのならちゃんと僕から全部買いなさいと。逆にそれぐらい酪農経営というのは覚悟のいる仕事だということなんですよね。

昔、酪農の先輩から「借金を無くそうと思うんじゃないぞ」って言われたことがあるんです。自らお尻に火を点け続けることで必死になれる。極論かもしれないけど、そのくらいの覚悟は必要な仕事だということです。

いまは毎日が楽しくて仕方がない。

最近は作業効率を見直したことで仕事が落ち着いて来たので、夫婦でゆっくりと出かける時間が増えました。ここ10年でコンビニやカフェが少しずつ増えてきたので、自分のスタイルで時間を過ごせる場所があるのは嬉しいですね。ライブやイベントにも積極的に参加して、知り合いもこの1、2年で一気に増えました。

最近は趣味もできて「篠笛」を練習していて、オカリナが得意な嫁さんと一緒に人前で演奏することもあります。音楽って、個人的にやっているのも楽しいけれど、人前で披露することで「こんな緊張するんだ」っていう自分に気付いたり、「ここが良いね」って褒められると嬉しいし、練習する意欲にもなる。それに夫婦でやっていると「今度はこうしよう」って自ずと夫婦の会話も増える。

いまでは知り合いを通じて、今度は僕が町外のバンドを別海町に呼んで、ライブイベントを企画することもあります。だからいま、日々がすごく充実しているんですよね。「あれしたい・これしたい」と思ったこと、例えば旅行なんかも「いずれ実現できる」と思えるようになった。仕事とプライベートのバランスが良くなったことで精神的な余裕ができたんだと思います。

この町に「いさせてもらえている」ことへの感謝。

いま僕や嫁さんが町でやっていることは、仕事にしろイベントになんにしろ、町や関わってくれる周りの方々への恩返しの気持ちでやっています。

永六輔が書いた詞の中に

生きているということは 誰かに借りをつくること
生きていくということは その借りを返していくこと
誰かに借りたら 誰かに返そう
誰かにそうしてもらったように 誰かにそうしてあげよう

という詞があるんですけれど、こういう気持ちって本当に大切だと思うんです。

たとえば、「いま町に自分がいること」は町の人が「いさせてくれてる」ということ。田舎であればあるほど、周り近所との付き合いはとても重要ですし、それがあるからこそ住み続けられているんだと思いますしね。そして自分がする恩返しを受け入れてくれる環境にもまた、感謝しています。昔、一人で突っ走ってしまって失敗をしたからこそ、その大切さが今はわかります。

ここは特に田舎の中の田舎。物の考え方の違いだって当然ある。でもうまく溶け込んでいけば、自分の人間形成にもつながるし、結果的に町での生活が楽しくもなります。そうすれば自然と日々も充実してくるんですよね。そして自分だけじゃなく、周りとの調和の中で生かされているということを忘れずにいれば、人生は楽しいものになると思います。


2018年12月13日収録
インタビュー、撮影、テキスト:倉持龍太郎(ライブイベントの写真の提供は押田賢二)

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