ほらり

玉手剛:「サケ科魚類の専門性」を活かして町に恩返しを。

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約9分

「サケの町」標津町。

生まれたのは中標津なんですが、父の仕事の都合で根室管内周辺を転々していたので、「出身は道東」という認識が強いです。標津町は小学五年の夏から高校三年の夏まで暮らしていた町。つまり「幼少期を過ごした主な場所」であり、サケ科魚類に関わるルーツとなった町ですね。

魚類へ関心を持つようになったのは、親から聞いた話によると、幼い頃に父が釣りに連れて行ってくれたことがきっかけだったそうです。そして、物心ついた時にはすっかり釣りが趣味に。サケ科魚類は小学生になる前から好きでしたが、標津町へ移ってきてから、町内河川に多く生息するヤマメ(ヤマベ)やアメマスなどを釣っているうちに、一層はまっていったように思います。

サケの仲間は顔つきやフォルムがかっこよく、体色も綺麗ですよね。加えて、釣って楽しく、食べて美味しい種類が多い。そんな彼らの魅力に取り憑かれ、幼い頃は毎日のように図鑑や釣り雑誌などを読んで、サケ科魚類について勉強?していました(笑)。当時人気があった釣り漫画「釣りキチ三平」を愛読していたので、その影響も強かったかもしれないです。

標津町は古くから漁業が盛んな町で、特にサケの漁獲量が多いので有名です。町内の小学校では授業の一環でサケの一生について学ぶ実習があったり、標津サーモン科学館ではサケ稚魚の放流イベントが行われたりと、サケについて学べる機会が多いのも特徴です。年に一回、町民へ秋サケが無料で配布されたりと、太っ腹な町でもあるんですよ。ある意味サケに囲まれた生活ができるので、「サケ科フリーク(マニア)」を育てるにはうってつけの町かもしれませんね(笑)。

サケ科類で食っていきたい。

中学生の頃には「サケ科魚類に関われる仕事をして食べていきたいなぁ」と、ぼんやりと青写真を思い描くようになっていました。

大人になっても幼い頃からの興味は消えることなく、知識を深めたくて北海道大学水産学部に進学し、卒業研究ではサケを対象に選びました。卒業後も当然、サケ科魚類の調査研究に携わっていたかったんですが、大学院まで行くとなるとやはり費用がかさむし、そこを出ても就職先はあるのかという将来への不安もある。ならば、「サケ科魚類に関われなくても、水産関係の調査研究の仕事であれば」と、卒業後はそのような職に就き、道央で働いていました。

ですが仕事をやっていくうちに、やはりサケ科魚類に関わることが無いのが虚しくて。中学生の頃に描いていた青写真を思い出したり、「自分が本当にやりたいことはなんだ」と自問を繰り返すようになり…。すると「やっぱりサケ科魚類の研究に携わりたい」という自分の気持ちに気が付いたんです。まだまだ年齢も若かったですし、「動くなら今しかない」と、仕事を辞めて大学院に入るという気持ちが固まり始めていました。

諦めきれなかったサケ科魚類研究への道。

職場は人がうらやむようなところだったので、両親に気持ちを打ち明けるときは本当に緊張しましたね…。ですが実家に戻って話をすると、父は意外な反応で「そう決めたなら、思い切りやってみろ」と、背中を押してくれたんです。幼い頃から「何かにはまると、とことん突き詰める」という性分の私を見ていて、父は初めから「大学に進学したら、たぶん大学院に行くんだろうな」と思っていたらしく、普通に大卒で就職をしたことの方が予想外だったそうです。だからむしろ「やっぱりそうか」と思ったかもしれないですね(笑)。「自分が好きな道に進みなさい」と理解を示してくれた時は本当に嬉しかったです。ただ、母親は「理解できない…」と涙を流していましたが…(苦笑)。

退職後研究の道へ、しかし道のりは険しく…。

退職後、研究生を経て、北海道大学大学院に入り博士課程を終えるまでの5年間、研究に没頭し、博士号を取得しました。この時の研究で扱ったサクラマスが、いまでも主な研究対象になっています。

修了後から少し間を置き、北海道大学の理学研究科を拠点とした文科省の「COEプログラム」という4年半の大型研究プロジェクトが始まって、それに携わる研究員として働きました。プロジェクト期間が自分の任期だったので、任期終了後を見据え、大学教員を目指して就職活動をしたんですが…いい結果には至りませんでした。

博士号取得者の受け皿となる公的機関や大学の正規職員のポスト数は限られているので、採用倍率が100倍なんていうのはザラの狭き門。だから博士号取得者で、例えば正規の大学教員になって働けるというのは本当にごく僅かといった感じなんです。あと、「博士号を持っている」というと箔がついているように聞こえるんですが、研究の世界において「博士号」は民間企業の採用試験でいうところの「普通自動車免許」くらい、持っていて当然の資格なんですよね。つまり「博士号を取ってからがスタート」といっても良いくらいなんです。

そんな事情もあって就職先が決まらないまま任期を終えることになったのですが、大学の救済措置で研究員として所属はさせていただくことができました。

所属しているだけなので大学からのお給料は当然出ませんが、文科省系の研究費は獲得できていたので、サクラマスの研究を続けることはできましたし、貯金も多少あったので、何とか食いつなぐことができました。

はじめて道外に住むことに。

プロジェクト研究員から無給研究員時代は、サクラマスの研究を続けるためにあくまで北海道での就職先を探していました。

というのも私の研究対象である「サクラマス」は、天然分布としては極東・東アジア地域にしかいない魚で、北海道はサケ・マス類の、特に野生のサクラマスの研究にはすごく恵まれている場所なんです。野生魚の生息数も比較的多いですし、自分には調査をやるうえでの土地勘もある。

ですが職が決まらなければ北海道での研究はおろか、生活だってできない。それに大学にもいつまでも置いてもらえるわけじゃない。「このまま北海道にこだわっていたらマズいかも」と思っていた時に、運良く宮城県の「東北区水産研究所」から、任期付きの研究職員ではありますが、「採用試験を受けてみないか」というお話を頂くことができました。その後、採用試験を無事パスし、当研究所に着任しました。

東北区水産研究所では、主に三陸地方におけるサケの回帰数変動やサクラマスの生態などに関する調査を行い、論文を執筆していました。「論文を書く」と言うだけだと、もしかしたら簡単に聞こえるかもしれないんですが、これが結構大変で(笑)。

論文が公開されるまでには、長い道のりがあります。まず、調査や実験、またはシミュレーションで得られた結果をまとめ、過去の論文のチェックや学会発表などを行い、その後、論文を書き上げて学術誌に提出します。

なお、私の専門分野では、英語で論文を書くことも普通です。提出先の学術誌での審査をパスして、やっと論文が公表されることになりますが、審査に通らなければ別な学術誌に提出しなおすことになります。

このように論文ひとつが公表されるまで結構な時間と労力がかかるんです…(笑)。研究者というのは、調査や実験などで得られた結果を論文にして公表するのが主な仕事ともいえますね。

ルーツである、標津町での再出発。

研究所の契約も期限が迫ってくる中、改めていくつかの大学教員公募に応募しました。

ですが、その時も採用には至らないまま契約満了。その後の就活では、公的機関や大学以外で自身の専門性を生かせる職も視野に入れる必要があると感じていました。ただ、民間企業への就職を目指そうにも、実利に直結する研究をしてきたわけでもないですし、年齢的にも難しいだろうなと思って。

こんな風にいろいろ悩んで就活をしていたところ、地域おこし協力隊としてですが「標津サーモン科学館支援員」という学芸員補のような、サケ科魚類の専門性を活かせそうな業務内容の公募が目に留まったんです。

当時宮城県に住んでいましたが、やはり「できれば北海道に戻りたい」という希望があったので、私にとって北海道で暮らせるというのは悪くない話でした。それに標津は幼少期に暮らした町でもあるので、標津町で活動することは,この町への恩返しにもなるかなとも思ったんです。

サケの水族館・「標津サーモン科学館」。

2017年に地域おこし協力隊として着任しました。帰省や調査などで道東に足を運ぶことはそれまでもありましたが、住むのは高校生以来。かれこれ約30年ぶりですよ。町の大きな建物も、海の向こうの国後島を望む景色も私が子供の頃過ごした標津町そのままで、懐かしさを感じましたね。戻ってきてから,標津町とその周辺の川や沿岸で何度も釣りをしましたが、昔と同じく、釣りをするには本当に良いところだと思います。

私の活動拠点「標津サーモン科学館」は、その名の通りサケ科魚類の展示をメインとした水族館です。

サケ科魚類の展示種類数は日本一で、館内の「大水槽」や「川の広場」、「稚魚コーナー」などでは、様々な種類の生きたサケ科魚類をご覧いただけます。また、「魚道水槽」では、2月から5月上旬にかけては約1万尾のサケ稚魚を展示しますし、9~10月はガラス越しにサケやカラフトマスの遡上シーンを間近で見ることができ、11月にはサケの産卵行動を観察できます。

このサケの「産卵行動展示」では、魚道水槽にオス・メスをペアで入れるんです。産卵前の雌雄の行動だけでなく、比較的高い確率で産卵の瞬間も見ることができるんですよ。

サケに特化した水族館は、当館や千歳市の「サケのふるさと館」、豊平(札幌市)の「さけ科学館」くらいで、全国的にみても珍しいと思います。

仕事の内容は主に展示している魚の管理や接客、サーモン科学館のブログ記事の作成など。接客業務では、リピーターの確保・増加に繋がるよう心がけています。戦略的にと言ったらいやらしいかもしれませんが、展示魚類をただ眺めていただくだけではなく、どこで獲れた魚で、どんな生態で、どんな特徴があるのかなどをお話しして、興味を持ってもらうことを意識しています。

だいたいの水族館では水槽前などにスタッフが常駐しておらず、展示生物や解説文などをお客さんが見て回るのが一般的なので、「サーモン科学館は案内や解説してくれる人がいていいね」という言葉をいただいたときは嬉しいですよね。自分の存在意義があるというか。

東京や京都など日本の主要都市から遠く離れている所ですが、しばしば海外の方も来館されます。もちろん、その時は英語で対応するんですが、ここでは論文執筆を通じて身に付けた英語力が生かせています。なかなかペラペラとはいかないですが。ただ、海外からのお客様は、多少でも「英語を話せるんだ」と思ったら、展示魚類などについてどんどん聞いてくることもあるので、そんなときはちょっと困ってしまいますけどね(笑)。

研究者として町への恩返しができたら。

協力隊になってから、早くも2年の月日が経とうとしています。任期終了後の目標は今までと変わらず、大学教員など研究で食べていける職に就くことです。
そうなると標津町、道東地域に残ってずっとやっていくというのは難しいかもしれませんが、幼少期を過ごした標津町で、サーモン科学館で働いているのも何かの縁ですし、サケ科魚類という部分でこの町とつながっているようにも思うんです。間接的にはなりますが、町への貢献・恩返しは研究を続ける限りきっとできる。そう信じて、これからも邁進したいと思います。

2018年10月10日収録
インタビュー、撮影、テキスト:倉持龍太郎
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