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小椋哲也:「無い」が「ある」という潔さ。

プロフィール 小椋哲也 / 41歳 / 別海町出身 / 2014年移住 / 別海啓晴会代表

研究者を目指して。

小椋哲也です。昭和51年9月11日生まれ、今年で41歳になります。今年が本厄なんですが、既にインフルエンザやら胃腸炎やらで洗礼を浴びています(笑)。

生まれも育ちも別海町で、高校卒業後は当時ソーラーカーの研究が日本の中でも進んでいることで有名だった北見工業大学に入学しました。ソーラーパネルが出始めの頃で、今のように電気エネルギーだけではなく、熱エネルギーとしても太陽光が併用されていた時代です。その当時、北見工大はソーラーカーの最高速度でワールドレコードホルダーだったんですよ。

もともと機械いじりが好きだったので、そのことを知った高校生の時に「これは面白い!」と。入学後は運良くソーラーカーの研究室に入れて頂き、ソーラーパネルの構造について研究する毎日を送りました。暗室で(笑)。

世界大会は在学中にも行われましたが、市が「ソーラー技術世界一」を強烈にアピールして北見市開催だったんです。地域的にはすごく良いことなんですがね…前の年までオーストラリアや鈴鹿サーキットでの開催だったので、研究室の皆でブーブー言ってましたよ(笑)。

趣味と仕事の壁、方向転換。

研究生活を通して「自分は技術者向きではない」と気付いて、大学院には進みませんでした。研究が仕事になると自分の思惑以外の成果をはめ込まれていくので、それは肌に合わないなぁと感じたんです。自分にとっての機械いじりは仕事のそれとは違うんだなと。

就職については色々考えたんですが、海外志向があったので卒業後に「ワーキングホリデー」でオーストラリアを一周する計画も立てました。でもスケジュールを計算したら、英語学校に通う最低限の期間以外はワークがない、「ホリデー、ホリデー、ホリデー」になることがわかって(笑)。担当者にも「せめて300万円の貯えがないとそのスケジュールでは許可が出せない」と言われてしまったんです。青年海外協力隊も考えたんですが、理系人材は実務経験が無いと受けることができないと知り、海外は諦めました。

最終的に先輩方が「研究室に残ればいいじゃないか」と言ってくださったこともあって、もう少し社会勉強しようと研究室に残ることにしました。お世話になった教授が戴冠の年だったので、式の準備含めて最後まで見届けたい気持ちもありましたね。それから一年ほど間は、企業との研究提携の調整や研究室のITインフラの整備などを行なっていました。

まちづくりをしたい。NPO法人設立。

戴冠式も終わり今後の身のなりふりを考えていた頃、たまたま父と繋がりがあった別海町役場の方とお話する機会がありました。イメージしていた役場職員と違って自由な考えを持っている方で。

「既成概念と違う人も中にはいるんだな」と興味を持ち、役場職員として働いてみようと別海町役場に入りました。なので、「地元に帰ろう」とかではなくたまたま戻ってきた形です。

最初の1年間は林務係の臨時職員として、ひたすら山を歩き回って測量をしてや森林施業計画を作りました。林務とは、いまで言うと「水産・みどり課」の「みどり」の部分ですね。大学でコンピュータについてもを学んでいたこともあってか、翌年正職員に採用されてからは電算室で事務の電子化やパソコンの導入、農家の通信回線確保など、ブロードバンド環境の整備に携わりました。電算室は出張が多い部署だったので、多くの人と関わる機会が周りよりも多く、視野は広がっていったと思います。

でも7、8年働いていくうち、公務員というものが段々よくわからなくなってきて。若手の同僚や先輩たちと、まちづくりに関する勉強会を横断的にやっていたんですが、やったらやったで色々な壁にもぶつかるんですよね。

僕は役場職員として公共に取り組みたかった。でもそれが遠く時間のかかるものならと、NPO法人を立ち上げて民間の方々と仕事時間外のまちづくりに取り組むことにしました。

まず活動で大当たりしたのは「たらいプリン」ですね。「牛乳の消費拡大を狙うならでっかいプリンがいいんじゃないか」と、ノリで作ってHPで公開していたら「地域のイベントに出店しないか」と声がかかったんです。

そのイベントの模様が新聞に掲載されて、今度は釧路の港まつりからオファーが来て、次は「キマッた服装で牛乳のスイーツを上質な空間で楽しんでもらおう」というテーマで出店。前と全然方向性が違うんですけど(笑)。

でもそれがすごい盛り上がって、各地のスイーツイベントに出店するようになったんですよ。そういったイベントへの出展や地域フリーペーパーの発行を主体に3、4年くらい活動しました。このNPO法人での活動が、ジャンボ・ホタテバーガーが生まれる礎になったんだと思います。当時の仲間が中心になって商品開発に取り組んだんですよ。

公共とは何なのか、学び直しの社会人大学院生。

イベント活動や商品の考案は楽しかったし充実もしていました。様々なスキルも身につけることもできました。

でも、段々と今度は「本来自分がやりたかったはずの公共」が何だったのかわからなくなってしまったんですよね。「役場職員として公共のまちづくりがしたかったのに、結局民間団体を立ち上げてやっている」というのが。

それでもう一度公共について勉強しようと北海道大学の公共政策大学院に入学。役場職員として働きながら、有休休暇を使って毎週末札幌まで通いました。学生時代と違うのは、授業が臨時休講になると「ふざけんな!」って思うあたりですね(笑)。学費はもちろん、札幌までの移動宿泊費も自腹でしたのでやっぱり大変でしたよ。でも同時に、本当に勉強したくて大学に通うというのが楽しかったです。3年目の年に札幌に異動になったのは助かりましたね。

大学院の勉強を通して実感したのは、公共というのは役所だけがやってるわけじゃないということ。どんな会社の仕事にも社会的・公共的な側面は絶対にあって、お金の出所が税金なのか、サービスに対する対価なのかという違いだけなんだなと。だから社会的な意義はどんな仕事にもあるんですよね。そういう意味では「サービスの提供=誰かに満足してもらうこと」の「誰か」の部分に差は無いんです。

それを踏まえて電算室での仕事を振り返ったんです。「自分はITを使って社会貢献をしたいのか」と。かならずしもそうではありませんでした。

やりたいと思ったのは、幼いころからつぶさに見てきた別海町の酪農や牛乳といった「食と農業」をテーマにまちづくりに関わることだったんです。NPO法人での活動はまさにそれでした。

公務員として公共性を追い求めていくのか、自分のやりたい方向でいくのか悩みました。役場職員でいることで学ぶことは多くありましたが、自分が思う「食と農業」の仕事ができる確証は無い。部署によってはできる環境があったとしても、自分はそこに行けるとも限らない。

そうして迷い考えている時、たまたまアフリカのマラウイに行かないかとのお話がありまして。札幌滞在中に「いつでも自立できるように」と、写真やデザインのスキルアップを目指していた時に知り合った方々からでした。

「現地まで同行して、写真を撮りながら滞在の記録を作ってほしい」と頼まれたんです。

長年の迷いを吹き飛ばしたマラウイ訪問。

マラウイで暮らす人々の、想像とは全く違う楽しそうな表情に衝撃を受けました。

貧しい村々に農業指導を行う模様を写真で記録していったんですが、テレビ見るような「かわいそうで涙が出る」ような光景は無かったんです。傍から見れば、国の平均年齢が35歳で、子どもの半分が餓死してしまう環境が幸せだと思えないじゃないですか。目の前にいる子供たちの半分は、数年後にはいないということですよ。そんな環境なのに物凄く目が生き生きしてて。いいか悪いかは別として、自分のベクトルと違う生き方を見てガツーンと衝撃を受けたんですよね。

「世の中には色んな世界があって、自分はまだ小さな世界に生きているんだ」ということに気付いたら役所に戻れる自信がなくなってしまったんです(笑)。マインドがこれまでからガラッと変わったんですよね。アフリカの大地を眺めながら退職を決意しました。

マラウイから帰国後、「農業の価値を可視化する」というテーマのデザイン会社を札幌で立ち上げ、間もなく看護師の妻と結婚もしました。

会社での仕事は農協さんと、農業のブランディングや旅行会社と農家を見に行くツアーをの企画、農協青年部のポスターデザインなどなど。これまでの様々な経験全てを活かすことができる仕事でした。

二度目の帰郷、子育てするなら別海で。

別海に戻るきっかけは子どもが生まれたことでした。札幌で共働きしながら子育てするかと、両親との同居も含めて別海で暮らすことの両方を考えました。私も妻も札幌の人間ではないし、長男としていずれ別海町に帰ることにもなる。子育て環境や自然環境などいろいろ考慮しても、別海で育てるイメージの方がしっくり来たんですよね。

そのタイミングで統一地方選挙がありました。公共政策大学院時代に、政治家を目指す社会人の同期たちも多くいましたから、政治という方向も興味がなかったわけではありません。そこで、前職で海外の事例を多くみてきた経験から、政治を舞台として「食と農業」に関わるのはどうだろうと。

デザインだけでは別海で食っていけないけど、その経験を議員として別海町の「食と農業」に活かすことはできるんじゃないかと考えて立候補しました。

そしていま、若輩ながら別海町の議員です。議員になって今年で二年目ですが、勉強の毎日ですね。役場に勤めていたので、それなりに議員活動について理解していたつもりでしたが、実際になってみるとわからないことの方が多いです。普段の活動は、年に4回開催される定例会への出席や、その他委員会活動だったりと色々ありますよ。それ以外は主に政策について日々勉強です。一期目は常に勉強ですね。

「無い」がある別海、青空のようなまちに。

戻って来るにあたって、改めて地元の良い所ってなんだろうって考えたんです。

国内外、趣味仕事含めて色んな場所や物を写真で表現したりデザインしてきた経験からの目で考えた時に、「これだ」っていう思ったのが青空だったんですよね。

青い空と緑の大地、それ以外何もないけれど「無い」が「ある」という潔さも含めて、色んな意味で別海の特性を表しているなと。広くて青くて、透き通った空。そんなクリアで広いイメージを人にも物にも付けたいという思いから自らの政治活動を行う団体を「啓晴会」と命名しました。

こうして自分はいま議員としてまちづくりに携わっているわけです。でも誤解を恐れずに言うと、地域が面白くなるのであれば自分はどういう仕事をするかにこだわる必要はないと考えています。ある一つの方法や仕事だけが、町をよくするというわけでもないですし、住民一人ひとりが楽しんで取り組める方法を選べばいいと思います。もちろん、議員に本腰を入れていますが、僕も並行して「酪農や漁業など一次産業発展の基礎となる環境づくり」に帰ってきた当初から取り組み続けているんです。

これからあらゆることを前向きに進めていきたいと思っています。


2017年3月3日収録
インタビュー:廣田洋一
テキスト:倉持龍太郎
撮影:山本圭一(過去の写真の提供は小椋哲也)

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