ほらり

平山辰男:子どもたちが継ぎたくなるような、恵みある農業を目指して。

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約9分

脱サラして、憧れの酪農家に。

出身は東京都です。別海に来る前は、仙台・大阪で貿易関係の仕事をしていました。その後、東京で会社員をしていましたが、このまま会社員を続けるか、脱サラして独立するか悩んでいたんです。もともと私は若いころから起業したい思いが強くあって、本当に自分に合った仕事、力が発揮できる仕事は何だろう? と常に模索をしていました。独立を目指して、焼き鳥屋、ラーメン屋等、飲食店に勤めたこともありました。

そんな中、とあるテレビ番組で、北海道で酪農家になろうと奮闘している人の特集を観て、その時「自分は第一次産業に向いているかもしれない……」と漠然と思ったんです。当時、美容師として働いていた妻に「今後、美容師として共働きで仕事をするのではなく、都会から離れたところで、夫婦で一緒の仕事をして暮らしてみるのはどうだろう?」という思いを伝えたら共感してくれて、そこで大きく道が開かれた気がしましたね。

酪農家になるためには?

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それからというもの、酪農、果樹園、畑作、林業、漁業などの情報を夢中でかき集めました。初めは漁師に強く惹かれたのですが、妻に「あなたが漁に出ている間、私一人でじっと帰りを待っているんじゃなくて、二人で力を合わせて、同じ場所で、同じ仕事がしたいの!」と猛反対されてしまったので、即座に諦めました(笑)。次に考えたのは酪農です。「酪農は家族経営が基本で、夫婦二人で力を合わせて仕事をしないと成り立たない」ということを知り、それであれば「夫婦で一緒の仕事をする」という当初の目的と合致しますし、妻も大いに納得してくれたので、「これしかない!」と決心しました。

いざ、酪農の情報収集をしてみると、北海道が新規就農の誘致活動をしていることを知りました。各地を比較検討したら、中でも別海のサポート体制がしっかりしていたんです。別海はそれまで名前も聞いたことがなくて、日本一の生乳の生産量だということはもちろん、そもそもなぜこの土地で酪農が盛んになったのかも知りませんでした。(注1

(※注1 別海町は1950年代に世界銀行の融資による『パイロットファーム計画』で近代農業化への基礎が築かれ、70年代には国策の『新酪農村建設事業』で日本屈指の酪農地域へと発展した。)

別海には『別海町酪農研修牧場』(以下、研修牧場)という施設があることを知り、そこに直接電話して問い合わせをしました。すると担当者の方が「農業フェアーというイベントがあるので、まずはそこに行ってみたらどうですか?」と提案されて、会場の大阪まで行きました。そこで研修牧場の当時の場長だった谷野さんにお会いして、酪農で新規就農に関する色々なお話を伺ったところ、「とりあえず夫婦二人で一回見に来なよ!」って言っていただいたので、思い切って夫婦二人で別海まで2泊3日で視察に行きました。

私たちは酪農体験はおろか、牛に触ったことすらありませんでしたが、別海町はそんな私たちでも「本気でやる気があるのであれば」「夫婦で力を合わせて頑張ることが出来るのであれば」、町を挙げて全面的に支援してくれることを知ったので、その視察で不安を解消することができましたね。

それから東京で1年程準備期間を設けました。すぐに移住をしてもよかったのですが、前職の仕事の整理や、多少でも蓄えをしてから行った方がいいだろうと判断したんです。その間も、夫婦二人で力を合わせて、酪農で新規就農にチャレンジしたい! という強い思いは揺らぎませんでした。

東京を離れる際には、家族や友達が盛大なお別れ会を開いてくれました。その時はさすがに寂しくなりましたが、新天地でのゼロからのスタートに思いを馳せ、「絶対にやってやる!」と強く覚悟したのを覚えています。

いざ北海道へ出発した日のことは鮮明に覚えています。全ての家財道具を必要最低限にまとめ、自家用車で茨城県の大洗港から北海道の苫小牧港にフェリーで向かいました。フェリーが苫小牧港に近づき、海上から北海道の広大な大地が目の前に広がった瞬間の感動は、一生忘れられないと思います。

2年の研修の後、いざ新規就農へ。

別海町で新規就農をするには、研修牧場を卒業することが必須条件だったので、まず私たちはそこへ入所することになりました。研修牧場には酪農経験者・未経験者を問わず入ることができて、私たちみたいな未経験者は、酪農のイロハを座学から実際の酪農作業まで、基礎からみっちり学ぶことができます。住宅も完備されていますし、お給料も生活に困らないくらいは頂けます。

私たちはこの研修牧場で1年間、もう1年間は実際の農家さんで住み込みの派遣実習をして、経験を積みました。実習先の農家では、実際の農家の仕事を目の当たりにし、そこから沢山のことを学びました。この両方の経験があったからこそ、今の私たちがあると思います。

その後、いよいよ新規就農に至りました。私たちの場合は、離農された方の牧場の跡地を引き継いでスタートしました。

就農資金は1億円!?

就農資金には約1億円かかりました。新規事業として考えた場合かなりの投資額です。自分たちがどの位の生産規模で経営をするかによって、投資金額は変わってきます。中には6000万位の方もいれば、1億を超える方もいます。私たちは約1億円の負債を25年の計画で償還するのですが、簡単とは思いません。しかし十分にやって行ける自信はあります。一生懸命やっていれば、確実にお金は残るし、回ります。技術的・経営的なサポートも手厚いので、自らが経営者として主体的に動いていけるのであれば、しっかりと前に進んで行けると思いますよ。

私たちは営農から4年が経つのですが、常に試行錯誤の毎日です。たった2年の経験で独立している訳ですから、最初から何もかもうまくいく訳はないと覚悟はしていました。たとえ失敗したとしても、めげずに、悩んで、試行錯誤を繰り返した先に、ようやく自ら答えを見つけ出す。これが将来に繋がる唯一の道筋だと確信しています。

酪農の仕事とは?

平山辰男

仕事は私たち夫婦と、私の父の計3人でやっています。父は私の実家の東京に住んでいたんですが、定年で何もやることがないとのことで、別海まで手伝いに来てもらいました。最初は2か月くらいのつもりだったんですが、なんだかんだ一年以上経っていますね(笑)。

牛は今全部で120頭くらいいますが、子牛の一部は農協が運営している『哺育育成預託センター』という施設に預かってもらっています。そこで子牛を育成し、種をつけてもらって、いよいよ分娩というタイミングで返してもらう仕組みです。子牛の世話は非常に手間がかかるため、自分たちの労働力では管理ができない部分を、外部に委託しています。

分娩は自分たちで全てやっています。助産師さんのようなイメージです。最初の頃は経験がないので、逆子の処置などは大変でしたが、経験を重ねるうちにできるようになってきました。

私たちの場合、1日の仕事の流れとしては、朝3時半に牛舎に行って、搾乳・餌やりを開始して、8時ぐらいに作業が終わって一旦帰宅します。それから休憩を挟み、14時に牛舎に行き、朝と同じように搾乳・餌やりをして、18時に帰宅します。作業のやり方や時間は農家によって様々です。

牛は生き物なので搾乳・餌やりは1日も欠かすことはできません。そもそも牛は乳を出すという行為自体をものすごくハイレベルな所で要求されています。加えて、今の牛たちは沢山の乳を出すように改良されていて、車でいえばF1カーのようなものです。なので、ちょっとした体調のコントロールをミスしてしまうと、すぐに体調に変化が表れ、風邪をひき、高熱を出して苦しんだりもします。その場合は、獣医さんを呼んで点滴、抗生剤を打ったりして治療をしますが、その牛の乳は出荷できず、廃棄するしかありません。いかに病気を出さずに健康的に飼うか。それは全ての酪農家の願いですし、飼養管理の腕の見せどころでもあります。

冬の間は土作り・草作りがないので、仕事は比較的楽ですが、春夏秋は普段の業務に加え、1年分の牛のエサ(草)を収穫し貯蔵する作業があるので、最も忙しくなりますね。

北海道と言えば、牛が牧草地で放牧されている景色を連想する方も多いと思うのですが、放牧をすると、牛が牧草地で草を食べて、排泄もしてくるので、上手く出来れば労働的には楽になります。経営面でのメリットもあります。その一方、放牧には放牧の難しさがあり、失敗するケースもあるので、舎飼いするのも選択肢だと思います。自分がどういうスタイルを目指すか、にもよるのですが、私は別海にはせっかく広大な土地があるので、それをうまく活用して、健康的に放牧する方法を取り入れるのが理想的だと思っています。

私たちの家族や友達が、酪農に興味を持って毎年遊びに来るのですが、間近で牛を見るのも初めてという人たちがほとんどです。とても興奮して、北海道の酪農のスケールの大きさに圧倒されています。私たちが、移住6年目、営農4年目にして、大変な仕事がらも豊かな生活が出来ていることに、皆、安堵してくれますね。そんな方々とはバーベキューやピザを焼いて、楽しい一時を過ごしています。

周りの農家さんたちとも交流はありますよ。ここの集落でいうと、年何回か定期的に行事のようなものがあって、そこで親睦を深めています。何か困った時には頼ることもあります。最初にこちらに来た時、挨拶に伺いましたが、新規就農者ということもあり、快く受け入れてくださって、色々気にかけてくださります。

酪農には『ヘルパー』という制度があって、休日を取得したい場合はヘルパーさんを依頼して、仕事をお預けします。去年就農して初めて休日をとりました。実に3年半ぶりの休日でした。私たちは営農スタートからずっとがむしゃらに突っ走ってきたので、休みが取れなかったのは仕方がない部分もあったのですが、もちろん定期的に休みを取っている人もいるので、各農家によって差はありますね。

ペルパーさんに仕事をお預けしている間に、もし牛に何かあったら……という心配を少しでも減らすために、今後はヘルパーさんが管理しやすい、安定した作業体型の基盤を作っていきたいですね。そうすればもっとスムーズに休みが取りやすくなると思います。

子供たちが継ぎたくなるような、恵みある農業を。

東京にいたら子供を三人も作ってなかったと思います。これは間違いない。イメージが湧かなかったと思う。東京で子供三人を育てるとなると、家は狭いしお金もかかるし、別海で育てるよりもはるかに大変だと思いますね。子供を安心して育てるには別海の環境ってものすごくいいですよ。周りに目移りするものがないし、特に酪農は仕事場も家のすぐそばにある。小さい頃から自然や動物と触れ合えることができる。この環境と仕事があったからこそ、自然と子供を授かり、家族になれたんだと思います。

酪農には以前から後継者不足の問題があります。新規就農者に手厚い支援があるのも、この後継者不足が主な理由です。簡単に解決できる問題ではありませんが、現実問題として、次世代の担い手を育てていかなければなりません。私はこの子たちに将来跡を継いで欲しいと思っています。兄弟一緒にやってもいい。私はこの子たちが自ら進んで継ぎたくなるような、恵みある酪農を実現したい。これが私の使命であり、役割だと思っています。

2016年2月14日収録
インタビュー:廣田洋一
テキスト・撮影(クレジット表記のないもの):NAGI GRAPHICS
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