ほらり

大隅啓年:別海町の橋渡し役、スター大隅。

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約10分

楽しみは自分たちで開拓する。

大隅啓年(ひろとし)です。生まれも育ちも別海町・尾岱沼で、子供の頃は外遊びばっかりしてました。特に釣りが大好きで、早起きして釣りに出てから学校に行ってましたね。チカが釣れすぎて「これじゃ学校間に合わない!」って、手に鱗付けたまま急いで行くこともあったのを覚えています。試験前の勉強も、友達とクイズ形式にして遊びに変えてました。まぁ後半は本当に遊んじゃってたけど(笑)。テレビゲームどころか、コンビニだってゲームセンターだって近場に無い時代ですからね。遊びは自分たちで考えて作っていくのが当たり前だったんですよ。親が子供に干渉しすぎない時代背景も影響してたのかな。

好きこそものの上手なれ。

中学生の頃は音楽に夢中で、ラジオから流れてくる音楽を毎日のように聴いていました。でも、レコードが欲しくたって中学の小遣いじゃ一枚が限界。だから仲間内で話し合って、それぞれが一番欲しいバンドのレコードを一枚ずつ買って。今度はそれをテープにダビングして渡し合うんです。そうするとお金をかけずに皆が聞きたいレコードを聞けるでしょ?

自分でも演奏がしたくなって、ドラムを始めたのは中学二年の時。親父が「安いのはすぐダメになるから」って高いのを買ってくれました。その時「一生辞めないから!」って約束をしたんですよ。あの時は買ってほしくてそう答えただけだったけど、本当に楽しくて楽しくて。音楽の先生に奏法を教わったり、擦り切れるまでテープ聞いて研究したり。気が付けばドラムを初めて30年以上ですよ。本当に一生続けると思います。

好きな言葉は「好きこそものの上手なれ」、これって本当だと思うんですよ。なんでもそうだけど好きだからこそ楽しいから続けられるし、自分のこだわりを持てるようになる。僕の場合釣りと音楽がそうだけど、本当に大好きだから飽きないんです。

中学に頃はスポーツ少年でもあって、野球に陸上、剣道に加えてドラムもやって体をいじめまくってましたね。陸上は部ではなくて、運動神経の良い生徒を学校が選抜して陸上部として大会に出場していたんです。大会前、朝のランニング中に「四角い太陽」をよく見かけました。「今日の朝日は四角かぁ」くらいにしか思ってませんでしたけどね(笑)。

怖いもの知らずだった高校時代。

高校は中標津高校に入学しました。「東武に毎日通えるじゃん!」(注)っていうのが理由です。あの頃の僕らにとって、東武はおもちゃ屋があって、ゲームもできる遊園地みたいなものだったんですよ。

(※注 東武:中標津町の老舗のショッピングセンター)

入学してすぐに先輩と仲良くなってバンドを組みました。でも、同級生とは距離があったかな。昔の高校なんかヤンチャな先輩ばかりだから、一年坊は怖くて近づけない存在なはずでしたからね。「怖い先輩と仲良くしてる危ないヤツ」だったわけです。

でも、入学早々スポーツのやり過ぎでヘルニアになって釧路の整形外科に入院。そこにもヤンチャな年上がたくさんいてね。弟みたいに可愛がってくれて、悪いこともいっぱい教わりました(笑)。学校に戻った頃は、不良ぶって天狗になってたと思います。若かったなぁ本当に(笑)。

家から学校が離れていたので、一年生のときから中標津に下宿していました。最初は実家の商店の中標津店。ここはパートさんが帰った後に、店の酒を呑んでドンチャン騒ぎしてたのが先生にばれて出ることに。2つ目は社会人も暮らしていた下宿。門限破って夜な夜な飲みに出て、大家さんに外出禁止を喰らって。懲りずに社会人を海産物で買収、部屋の窓から出入りさせてもらうって悪知恵もバレて追い出されて。結局最後は親戚の家に(笑)。

そんな生活で、学校にほとんど行ってなかったから、3年生で留年しかけて。英語の単位不足だったんですけど、最後のテスト前日も酔い潰れて寝ちゃったんです。当日の朝は本当に青ざめましたね(笑)。留年だけはどうしても避けたい思いで、これまでこんなに集中したことは無いってくらい教科書を眺めて暗記しました。答案返却時に頭叩かれたときは「留年」の二文字が頭をよぎりましたが、「やればできるじゃねぇか!」って言われて一安心。なんと英語95点!本当にやればできるもんですね(笑)。

突然の勘当、これからどうする?

卒業後は札幌の専門学校に進学したんですが、飲み癖が直らなくて一年で退学しました。学校に行かなかったんで、単位が足りなかったんですよ。進級試験も受けて無かったですし。

それから実家に戻って家業を手伝ってたんですが、3ケ月後くらいに、酔っぱらって朝帰りしたんですよ。さすがに親父も怒って勘当されてしまったんです。

ひとまず学生時代に借りてたアパートの契約がまだ残ってたから札幌へ。でも、これからどうしようって話ですよ。自分がどれだけ甘えてきたか痛感しました。契約も両親が残しておいてくれたものだったんです。でももう家賃は自分で払わなくちゃならない。とにかく働き先を探すことに。

すると札幌に住んでいた先輩が「うちの店で調理担当として働け」と連絡をくれたんです。毎日午前2時~3時まで働いて休日には仕入れにも出て。2年くらいたった頃には、高級メンバーズクラブにヘッドハンティングされて転職。オードブルがメインだから腕を振るうような所じゃなかったんですけど、午前0時には帰れるし。結局、体力を持て余して退勤後にホストクラブの厨房でのアルバイトもしました。

調理ができたのは、両親が「働かざるもの食うべからず」の考えだったからなんです。子供の頃から包丁握らされてね。弟と妹の弁当も僕が作ってました。親の教えがあったから仕事も見つかったのかもと思うと、感謝しかないですよ本当に。

貯えもできてきたので、札幌に進学してきた弟と妹を部屋に呼んで、3人で暮らしました。その方が実家の仕送りが負担軽くなりますからね。せめてもの罪滅ぼしですよ。働いて兄弟の面倒も見るようになってから、両親との関係は修復しました。

もうバカばっかりやってられない!

長男として家業を継ぐことはなんだかんだずっと頭の中では考えていました。腹を括ろうと決めたのは、札幌で見た海産物の値段や味。高くってビックリしたんですよ。味も全然違って。最初は「うちは獲ってすぐの食えるからなぁ」くらいしか思ってなかったんですけどね。でも別海町の海産物の方が断然旨いし、大きい。それがきっかけで「もう馬鹿じゃいられない、スキルアップをしよう」と本格的に動き始めました。まず仕事先のクラブのママに相談して、水産関係の仕事を紹介してもらって。

ところが、転職してスキルを身につけよう!と意気込んでいた矢先です、実家から「お父ちゃんが新しいことやるんで忙しくなる。家業の商売と競りをやってほしい」と連絡が来たんです…。まだ何も身についていないから待ってくれと言っても、急ぎだったので急遽地元に戻ることに。

職場のママやバイト先の店長も、突然のことながら優しく送り出してくれて。最初から最後まで、本当に周りの人たちに助けられた札幌生活でした。

救ってもらった周囲の優しさ、人情。

とはいえ、水産関係は経験が無いから右も左もわからない。最初の頃は周りの見様見真似でなんとかこなしていました。その時をなんとか乗り越えることができたのも、本当にいろんな人が助けてくれたからです。

ライバル同士なのに競りで譲ってくれたり、安く買える傷物の魚をくれたり。特に傷物は安く買えて、それを加工して売ったり卵を売ったりできるから利益が出しやすいんです。皆欲しいはずなのに「あいつ困ってるらしい」って…本当に人情ですよね。

でも、そのやさしさに甘えてしまったこともありました。

魚を持ってきてくれた人に生意気な態度をとってしまったんです。当然、「お前が困ってると思って皆助けてくれるのに、その物言いは何だ!」って怒られて。でも、それで逆に目が覚めたというか。ハッとしました。そんな風に怒ってくれる人がいたから気付くことが出来たんですから。あの時、自分の甘えをきちんと叱ってくれる人がいてくれて、本当に良かったと今でも思っています。

まる太、オープン

いつか自分の居酒屋をオープンするのが夢で、最初は中標津で出そうと思っていたんです。でも加工場や競りはこっちだし、「まずは尾岱沼の人を唸らせてから」と母ちゃんとも話したので尾岱沼でやることに。我が母親ながらかっこいいこと言いますよね(笑)。

最初の頃は地元優先で行きたかったし、お客さんはこの辺の漁師さんが多いから肉料理をたくさん提供してました。オープンした当初は、本当に休む間もないほどに混みましたね…。漁師さん達、毎日海から帰るとすぐに詰めかけてきて。カラオケも置いているので「まる太に行けば楽しい」って来てくれてたんですよ。おかげ様で大盛況でしたけど、「金はいいから休みくれー!」ってくらい忙しかったです(笑)。

地元からの客足が落ち着き始めると、次第に内地の人も来るようになって。ホタテやホッキを皆うまいうまいって食べてくれました。獲ったそのままで提供しているので、何も手は加えていません。でも、別海町はホッキの漁獲量全国2位ということも、ジャンボホタテのことも知らない人がすごく多くて。それで「これはなんとかして尾岱沼の海産物をアピールしないと!」って思ったわけですよ。

別海ジャンボホタテバーガー。

ジャンボホタテバーガー誕生の経緯はいろいろあって。

まずホタテが中国バブルで値段が上がる前、ものすごく安い時期があったんです。大きすぎて逆に料理でも使いづらかったんでしょうね。寿司屋もあまり買い取らなくって、2Lサイズはほとんどが贈答用になってましたから。

でも本当に大きくて味もうまいんですよ。まる太では「ジャンボホタテの貝焼き」として、どうにか知名度を上げようと躍起になってました。するとある時、うちの店でホタテを食べて感動してくれた人と出逢ったんです。「こんなの食べたことない!」ってね。それで「美味いものの宝庫・別海町をみんな知らなすぎる!」って盛り上がったのが始まり。

酪農大国でもあり、生乳生産量が日本一の別海町の牛乳消費拡大も狙いに立ち上がった「ご当地グルメ協議会」で、町内の飲食店さん達と色んな案を出し合いました。それで生まれたのが「ジャンボホタテバーガー」。正直最初は「バーガーかぁ…」って思ってたんですけど(笑)。

ともあれ、ジャンボホタテバーガーでご当地グルメ大会に出場。当時はB級グルメ、ご当地グルメが全盛期で日本中で盛り上がっている頃でした。

そこでまさかの優勝!予想するに「予想がつかない味が受けたんじゃないか」と皆で分析。○○味っていうのでも、なんとなく想像がつく味ってあるでしょ?でもホタテバーガーはさ、パンはうまい、マリネも美味い、ソースも美味い、そして最後にでっかいホタテがゴロっと出てくるっていうさ。それが「えぇっ!?」って予想しない味で受けたんだと。結果はもちろんですけど、とにかく別海町の宣伝になったことが本当に嬉しかったです。

スター大隅として別海町を全国に。

北海道といえばカニとかが有名だけど、それだけじゃないんだってことをいろんな人にわかってほしいですね。でも、地元だけで「うまいうまい」って言っててもダメ。もっと外に向かって発信していかなくっちゃ。そこで誕生したのが「スター大隅」。

大隅さんが開発した「スター大隅万能だれ」。長年の試行錯誤の連続のうえにたどり着いた納得のタレ。

「変な格好で歌って、ホタテだホッキだって言ってる変な奴がいるらしい」って、マスコミが取り上げてくれれば話題になるじゃないですか?それで興味を持ってもらえたら別海町に来る人だって増えるかもしれない。

スター大隅としての活動が、町外への宣伝の橋渡しになれれば良いなと思ってて。そういう意味では別海ミルクガールにも復活してほしい!新聞にもたくさん載って人気だったんだから。ぜひとも復活してほしいですね。

もちろんPRのためにイベントに出れば、費用もかかるし大変なことはたくさんある。でも一度出ただけじゃ宣伝にはならないんですよ。時間をかけて、お金がかかっても何度も何度も宣伝に出かけて行かなきゃダメ。一発逆転でどうにかなるんだったら今までどうにかなってたはずですから。

大隅商店としても、スター大隅としても、必要とされる限りは町内だろうと町外だろうと、どんどん出てって別海町を盛り上げていきますからね!

2017年2月収録
インタビュー、テキスト、撮影:倉持龍太郎
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