ほらり

宮坂隆男:酪農イノベーション、ここは開拓者の町。

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約12分

家族で「分業」する酪農経営。

「TMR※センター」の運営をしています、宮坂隆男です。1946年生まれで、今年で70歳になりました。別海町の西春別に家族と一緒に暮らしています。子供は上から男・女・男・男と、子宝に恵まれました。いま一番上が40歳、一番下が35歳だったかな?牧場の方は息子たちに任せていて、私は引退しましたからもう手出し口出しはしてないです。次男?どうやら札幌あたりでカフェだか喫茶店だかをやってる……と聞いてます。長女は名古屋へ嫁ぎましたが、夏になると暑さに耐えかねて孫と避暑に帰ってきますよ。娘と孫、両方の顔が見れるので夏が毎年楽しみなんです。

※TMR=「Total Mixed Rations」の略。牧草やコーン等、異なる飼料にビタミンやミネラル・添加物を混ぜ合わせた混合飼料。乳量の増加や、作業の省力化に有効で米国で積極的に実施されている方法。

孫は7人“ぐらい”なんじゃないかな、多分(笑)。4人が西春別にいて、幼稚園に通っています。私の知らないところでもしかしたら増えているかもしれませんがね……(笑)。

TMRセンターが始まった頃、息子たちの耕作機械の使い方やノウハウは私から見ればまだまだでした。そこで大面積の管理はセンターに任せて、経営内作業の分離をしました。息子たちが農場運営・TMRセンター役員・エサの責任者を、私がセンター運営につく。これが我が家の経営スタイルです。

牧場は頭数が増えて今では450頭※くらい。でも、私が息子達に「牧場を継げ」と言ったことはないんですよ。長男はラグビーをやっていましたが、高校卒業は自分の意志で酪農学園大学に入学しました。繰り返すけど、私は「継げ」とは言ってないですからね?(笑)。

でも大学3年生の正月休みの時、「酪農学園大学はどうなんだ?」と聞くと、長男は「なんか、牛オタクみてえなやつがいっぱいいたよ」と。酪農経営において大事なのは牛が好きなことも勿論だけど、やっぱり牛でちゃんと商売出来るかどうかだと私は思うんです。つまり客観性を持って酪農に接せれるかが。だから長男の返事を聞いて、「おお、こいつはいい経営者になるな」と思いましたね。牛オタクじゃない長男は客観的に酪農と向き合えるなと、その時感じました。

※本州では一般的に100ha(約牛100頭)以上で大規模農家と言われる事が多い。酪農大国別海町基準では100haが平均、200ha(約200頭以上)で大規模農家と呼ばれる。

東京と牛とバキュームカー。

出身は東京の練馬で、2歳の時に中目黒に引っ越して、渋谷から来る玉電の通る道路近くの幼稚園に通っていました。家のすぐ裏には目黒川が流れていて─桜の名所で有名な目黒川です─、当時は今ほど有名なところではなかったけど、桜がいっぱい咲いていた記憶がありますね。それから、小学校へ上がる前に今度は新宿へ引っ越しました。

当時の東京は、町中にも牛がいたんです。清掃局が町をまわってし尿を回収する車(※現在のバキュームカー)ってあるでしょう。それが当時は、肥桶を積んだ車を牛がガラガラと引く牛車だったんです。笑えることに、荷車に立派な東京都のマークがついていましてね。建物なんかにもついてるでしょう?銀杏じゃない東京の漢字を使ったあのマークですよ。だから私の中では東京都のマークっていうのは「し尿回収の牛車」のイメージでしたねえ。

記憶を辿ってみると……そのころ東京はまだまだ戦争直後の焼け野原がたくさん残っていました。子供の頃は、空襲で焼けた建物や瓦礫などの跡地で遊ぶのが当たり前。道路にはアメリカ兵が乗ったジープがまだまだ走っていました。黒人の兵士は子供たちにお菓子なんかを配っていたんです。子供の頃の記憶だけど、白人よりも黒人のほうが親切だな、なんて話してましたよ。「はだしのゲン」の「ギブミーチョコレート」みたいだと言ったらおおげさですが(笑)。

酪農家になる「決意」。

大学では拓殖学科というところで、移住や農業技術に関する専門知識を学んでいました。畜産専攻ではないので酪農の勉強は一つもありませんでしたが、北海道酪農実習は、海外実習の選抜に有利になるので多くの学生が希望していました。私も実習で肉体・根性を鍛えようと友達の案内で道東に実習に来ました。

北海道の酪農の仕事は肉体労働が主。「これもトレーニングだ」と思ってやっていたんですが、自然の中で働いて感じる疲労感がとても心地良かったんです。そして肉体的にも、精神的にも緊張感が続く、牛たちと生きるこの仕事と生活にとても魅力を感じるようになりました。「俺は生産者として生きてゆこう。まだ自分が現役農家でいるこれから50年後には、酪農経営者は激減するだろう。でも、それでも生産者として生きる。」と、そのとき本気で酪農を決心しました。

人工授精師資格取得と別海町移住。

しかし、当時の私は酪農に関しては全くの素人。牛について何も知らないし、経験もほとんど無い。経験豊かな酪農家の話や獣医師の説明を聞いても、本を読んでみても、難しくてわからないことばかり。

そこで人工授精師の資格取得を思いついたんです。「栄養生理と腹の中の仕組み、繁殖生理が酪農家として必須な知識だ」と考えた私は、資格の勉強である程度理解できるようになるだろうと。

授精師免許を取る方法を探したところ、千葉県で講習があるのを見つけました。県畜産課の課長から、「県の畜産試験場に行けば、人工授精師の資格を取るための勉強が出来る」というアドバイスをもらい、試験場に潜り込みました。場所は、今の成田空港がある当時の三里塚の近くの冨里村でした。

そこで同年輩の技師や獣医師たちとアメリカの酪農技術や栄養学、酪農経営実態分析など興味深い多くのことを学びました。ここでの経験が、後の自分の酪農経営の基本になったんです。

資格も無事に取り、25歳の頃別海町に移住しました。その頃からずっと西春別に住んでいます。いまのかあさん(奥さんのことです)と出会ったのは西春別の農協に勤めていた頃。かあさんは農家の娘さんでした。結婚して、思いもよらないほど自然な流れで私も農家を継ぐことになりましたよ。まさかこんな形で自分が牧場を持つことになるとはね(笑)。

当時は、昭和40年から続く規模拡大の時代。加工乳不足払い制度や構造改善、大規模草地改善など……いろいろな事業が進んでいました。継いだ農場は比較的規模が大きく、牛も畑も多くて仕事が大変でしたね……。まともに食事をする時間も無いくらい。その大変さも、望んで飛び込んだ世界だったので楽しみでもありましたが(笑)。トラクターに乗っている時は飯を食えるのでありがたかったです。

アメリカ酪農と決断。

こっちに来てからも、アメリカ酪農科学への興味はずっと続いていました。「すごいなぁ」って。そんな時、ホクレンの人がアメリカの酪農学者を私の牧場に連れてきたんです。昭和54年の秋でした。聞きたいことがあまりにも多すぎて、大学ノート一冊埋まるぐらいの質問、話を聞きました。酪農科学で疑問に思っているどんなことでも答えてくれるんだからこりゃあ、もうほんとにごっつい先生でしたよ。今でも尊敬しています。

次の年には、フリーストールバーンのマネージメントを見にアメリカまで研修に出かけました。酪農科学を研究者や先生の講義を聞いたり、優秀な農家を見て歩いたり。今でこそ当たり前だけど、その当時フリーストール・TMR・先進的酪農科学・技術を間近で見ることは貴重な体験でしたよ。まだ日本にTMRという概念がなく、理解していなかった私はアメリカ穀物飼料協会の職員にも物怖じせずになんでも聞きました。「TMRって、要はぐちゃぐちゃ混ぜた餌だろ?本州の農家はそんなこともうやってるぞ」なんて怖いもの知らずな事も言ってました(笑)。

日本で初めてTMRって言葉を聞いた酪農家は私たちだと思います。農場視察中気づいたことは、アメリカ農家と日本農家の、学者に対する質問や接し方、態度の差が大きくて、それを興味深く思いましたね。日本の農家は、「学者の言うことは理屈だけで、実際の生産現場は違うもの」と、科学的理論や技術を馬鹿にするようなところがありました。

新しい科学を酪農に進んで取り入れて経営を発展させるアメリカ酪農経営者、裏付けとなっている酪農科学研究と教育。日本とのあまりにも大きい差に、アメリカ酪農経営者があまりにも大きく感じられ愕然としました。更にその頃、日米貿易摩擦も大きくなっていて、「将来日本の酪農も、この国とこの経営者たちと勝負していかねばならぬのか」と唸ってしまいました。日本に新しい知識を持って帰って、実践しよう。そう決心しました。

帰国後、昭和63年にフリーストール牛舎※を立てました。

※フリーストール牛舎=牛を繋がずに、自由に歩き回れるスペースのある牛舎。牛個々の部屋を仕切らないので敷料も少なく済み、排泄物の掃除も省力化できる。

「フリーストールの導入=大規模化」は周辺の酪農家達を駆逐して自分が生き残る道を選択をすること。心にひっかかって何年も踏み出せなかったんですが、その頃牛肉とオレンジの自由化が決定。「生乳生産で食べられる経営を作らないと生き残れない」と危機感を覚えたんです。

-この地域の酪農が本当に衰退したら自分が生きてきた意味は何なんだ。俺は絶対に酪農家として生き抜くぞ-。

決断をしました。

西春別TMRセンター。

しばらくすると、西春別の自分のまわりで離農する農家が出てきました。それで、持っていた土地を私に売ったり譲ってくれたりしたんです。でも、譲り受けた土地は必ずしも自分の土地の隣ではないですからね。飛び地や離れたところにポツンとあったりもする。そうなると、そこに牧草やデントコーンを植えても回収に行くのが非常に大変な訳です。作業量も増えて効率が悪くなっていくばかり。どうにか畑作業を分業化して負担を軽くできないかなあって考えていました。

今から15年前ぐらいから、西春別でも経営規模拡大や支援組織づくりの考えが出てきました。農家さんや農協職員たちで、TMRを含む自主的な勉強会が開かれてきました。私も誘われてましたが、20年以上自分で試行錯誤しながらTMRで牛を飼っていたので皆さんの認識と差があり、参加には乗り気ではありませんでした。

しかし説明を聞いているうちにこれは自分でTMRを作るのとセンターのTMRを購入するのは経営的に大きく違うと気づいて「これはイノベーションだ」と参加を決めました。それは自己資本と労働の配置、投資の仕方が激変する。酪農の宿命みたいな多くの投資と長時間労働が変わるよねって気づいたんですよ。

でも、やっぱり酪農は「大草原の中で牛を放牧して、のんびりと自然と一体に家族とともに働く」というイメージを持ってる人が多いんですよね。フリーストール牛舎や、栄養を調整したTMRは邪道である、という意見もありました。

ほら、一般的な酪農のイメージといえばアルプスの少女ハイジのような感じでしょう。もちろん、私も牛飼いとしてはそういうのも一つの理想モデルとして頭の中にはありますけど、現実的な話、私たちは経済行為をやっているわけです。

酪農経営は牛舎機械など投資金額がかさみ今では億を超す投資は珍しくありません。装置産業の特性を持った農業なんです。生活があり、家族があり、経営のことがある。となると、なかなかアルプスの少女ハイジというわけにはいかないんですよね……。

業務として効率化させていき、生産性を高める必要があります。この狭い国土の中で国内で国民の牛乳乳製品を賄っていくには、情緒的経営概念では生産していけません。

今では多くのセンター構成員がその特徴を生かした酪農に取り組んでいますよ。儲けることは大切ですが、それに加えてセンター構成員は仕事にゆとりがあります。私の経験でも多頭化規模拡大を進めていく中で自分の頭や注意力足りなさで経営がうまく行かずイライラしたもんですが、構成員の若い連中は時間にゆとりをもって自分の経営を俯瞰しているんじゃないかな。時間のゆとりは経営者にとって大切です。

「人」を育てる酪農経営。

私自身も含めて、友人もアメリカやドイツの農家さんに出稼ぎや勉強をしに行っていた経験があるから、外国から来た研修生にもその時の経験を話すことがあります。

「私たち世代も昔、日本を離れて研修に行ってきたことがある。お前たちも、今そうやって東南アジアから日本に来て頑張って働いている。」

「ここで得たお金は、持って帰って使ってしまえば終わりだ。30年前、日本も東南アジアのように発展途上の国だった、今はこうして先進国として栄えている。その事実を心に染み込ませて帰れ。日本人をよく見て帰ることが重要だ。それは、お金よりもずっと大切な、お前の一生の財産になる。」

「お前の国とこんなに気温差があるこの場所で、家族のために苦労して3年間働いたお前の経験は、故郷の国でのんびり暮らしてるやつらとの間にものすごい差を生むだろう。」

こんな話を、ここでの仕事を終えて故郷に帰っていく研修生に何度もしました。

新しいことに挑戦・開拓する人生。

これからの酪農でやはり大切なことは「ものづくり」よりも「人づくり」。酪農にかかわらず、積極的に将来に向かって事業や地域社会を充実させるには人の力が大切です。

「ほらり」のような活動でいろいろな種類の人が集まって、また新しく地域に人が入ってくるとするでしょう。そうすると、今までなかった発想や動きをする人も増えてくると思います。すると非常に不定形な反応というか、非日常的な反応が起こる可能性がある。

その反応が生まれてくると、次は新たな仕事が生まれてくる。たとえば、何か同じものをずっと維持していくだけの仕事というものは、日々同じことの繰り返し、流れの中で完結してしまうんですよ。

今まで通りの繰り返すだけのやり方では、新しい仕事や新しいものはなかなか生まれてこない。どんどん新しい人や知識を取り入れて、より良くしていくべきだと思います。ニューカマー(移住者)当人は生まれ育った土地環境から跳ね返りここに来ますけど、地域の人はここで当たり前な暮らし・生活をしてくれる人を求めるんです。地域に受け入れられる異才って難しいけど受け入れてくれるこの地域に感謝できる人材がほしいんです。

人生はやっぱりチャレンジ、踏み出すということが大切。この町もそうして開拓されてきまたから。それが失敗だったり、上手くいかなかったりすることもあると思います。でも踏み出さないことよりいい。絶対そう思います、私はそんな人生を歩んできたから。

2016年7月30日収録
インタビュー:廣田洋一
テキスト:菅原銀二郎
撮影:倉持龍太郎
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