ほらり

橋本美和:人と出会い、つながれる。ラジオパーソナリティは天職。

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約12分

社会の酸いも甘いも見てきた4年間。

橋本美和と申します。1979年生まれのふたご座。北海道中標津町のコミュニティFM「FMはな」でラジオパーソナリティをしています。

生まれも育ちも別海町中春別ですが、17歳のときに、周囲の大反対を押し切って単身で知り合いがいた名古屋に行きました。歌手になりたくて。小さい頃から周りに「美和ちゃん歌上手だね」っておだてられて育ったんです。もともと目立ちたがりなので、学校祭で歌ったりとかすると気持ちよくなって。そこに、いろんな人生の転機とか人との出会いとかがあって、それで勢いで……。

親からの支援は一切ないので、まずはお仕事を見つけて働いて、衣食住全て自分でまかないましたそれで歌のレッスンに通っていたんですけど、やっぱり生活するために時間が全て奪われてしまうというような状況。レッスンどころじゃなくなりました。一応レッスンには行くんだけど、もう疲れ切っているので、身が入らないんです。この時に、親の支援を受けながら勉強ができるっていうのが、いかに幸せなことなのかを思い知らされました。親のことが大嫌いだったのに、そこで親のありがたさを痛感しました。

しかも、レッスンを受けていると自分のレベルっていうのは大体見えてくるんです。「あぁ、私はここ止まりなんだな」と。「世の中の酸いも甘いも全てそこで見てきた」みたいな状態でした。

見方が変わった名古屋での生活。

北海道を出たことによって、自分の住んでいたところのよさっていうのも改めて知りました。私、家が田舎っていうことが嫌だったんです。自分が農家の娘っていうのも、コンプレックスに思っていたんです。サラリーマンの方が偉いという印象があって。なのに、いざ向こうに行って友だちもたくさんできる中で、自分の出身地を「北海道」って言うと大体の人が「北の国から!?」っていう反応をするんです。さらに「実家が酪農家」って言うと、「すごいね!!」って言われるんです。よくわかんないけど、それだけでつかみはOKなんですよ(笑)。とにかく、自分が働く場所をすでに用意されているっていうのは、それはものすごく貴重なことなんだって、外に出てみて初めて気付きました。

年に何回かは実家に帰ってきていたんですが、私が21歳のとき、酪農をしていたうちの父が「離農を考えている」っていう話を聞かされました。私、昔は親が大嫌いで、それもあって実家を出て行ったっていうのもあったのですが。いざ、「もしも離農したら……」と考えたら、自分よりむしろ、親の将来の展望が見えなくなった。

私の家はおじいちゃんが作った牧場だったのです。おじいちゃんが大好きでした。おじいちゃんの膝の上に座って一緒に相撲番組を見ていたほど、おじいちゃんに育ててもらったという思いがあった。入植当時の話をよく聞かされていたのもあって、ここはおじいちゃんの思いが、たくさん詰まっている場所です。

名古屋での自分の生活、親の行き先。弟が2人いるのですが、当時はまだ学生だったし、「俺は(酪農は)やらないよ」と。

自分の将来を考えたとき、「私がここを守ろう」と思ったんです。そして、名古屋での生活を4年間で終わらせて、後継者として戻ってきました。

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ある日突然、牧場の全てを任された!

牧場は、私の育った環境であり、子どもの頃からずっと仔牛と一緒にお昼寝していたり、搾乳の手伝いもしていたので、不安はありませんでした。でもその頃は、遊び場のような感覚。いざ、仕事としてやりはじめると、経営のことは何も知らないという現実に気付きました。

経営に必要な「牛の管理・土地の管理・お金の管理」っていうのが、何もわからない。とりあえず両親と働きながら教えてもらおうと思っていたのですが……半年後、定期検診でお父さんがガンだとわかり、入院することになりました。病院では今すぐに入院が必要だという深刻な状況でしたさらには、お母さんは長年の無理がたたり足を悪くしてし、人工股関節にするため入院が決まっていて。ある日突然、私が全部を任されたんです。

1人で60頭搾乳して、除糞して、1人でエサを作ってトラクターで運んで、それを一輪車で60頭分運んで……と、1人で全部をやっていました。

トラクターなんて、覚えたら簡単ですよ。普通の車と変わらないですから(笑)。牽引のバックは、最初は難しかったですけどね。別海高校の農業特別専攻科にも通いました。牛に関することは、なんとなくは分かっていましたが、改めてそこで繁殖管理などを勉強したんです。とにかく朝から晩まで、ずーっと仕事をしていました。昼間ちょっとでも時間ができたら寝るっていう感じでした。

当時我が家の経営は、あまりよくありませんでした。お父さんも、病気のせいもあって気力もなくて、いつ辞めてもいいっていう状況だったんです。そんなときに私がやるっていうことになったのを機に、地域の皆さんがバックアップしてくれることになりました。農業改良普及員(※)の方にも入ってもらって。4年くらいで乳質も経営もどんどん改善しました。お父さんも、幸いなことに体がよくなって、復帰できるまでになりました。

(※)農家の技術や経営の向上のための指導やアドバイスをする人。各地域の農業改良普及センターに所属している。

父が元気になって喜んでいたのですが、ここからがまた修羅場でした。父と娘の確執が出てしまったんです。私は、お父さんがいなかった間、自分が牧場をやっていたっていう自負がある。お父さんは、今までずっとやってきた自分のやり方がある。私には、父がいなかった間、自分なりに試行錯誤して、つかんだやり方がある。乳質もよくなり、収入も上がってきている。でも、お父さんにとってはそれは問題じゃないんです。親子だけに似たもの同士。ぶつかり合って、なかなか分かり合うこと、譲り合うことができなかった。

そこで散々ケンカして、いろんな人にも間に入ってもらいましたが、もうどうにもうまくいかなくて。ある日の喧嘩で、「もう、お父さんは牛舎に来なくていい、私が1人でやる」と言って、お父さんに手を引いてもらって、私が1人でやるっていう状況がずっと続いていたんです。

でも、1人でやることへの限界を感じていた矢先、今の主人に出会って、色々、相談に乗ってもらっていたんです当初は、酪農業を続けるためにはどうしたらいいのかと。彼は私の希望を叶えるために、一緒になって経営のことを真剣に考えてくれていました。そんな矢先、私の妊娠が発覚。彼とは、結婚も考えていましたが、酪農経営を立て直すのが先だと思っていただけに、どうするべきかと。主人とも色々話し合いをして、主人が牧場をやるという選択肢も出ましたが、彼自身酪農の知識はありません。

当時の経営は、私が辞めると選択したら、その通りになる状況。本当にそれでいいのか?ここに根を下ろしたおじいちゃんの思い。両親のこれから。そして私自身。今ここに宿っている命。

色々な思いが錯綜する中、命の行く末を考えました。「離農」を選択した場合、牛たちは売られ、ばらばらになっていきますが、その牧場で天寿を全うできる。今ここに宿っている命は、私にしか育てることができないのだと気づいた。ここで堕胎を選択すれば、人殺しと同じことだと。

相談した親戚のおばさんに「あら、おめでとう。よかったね」と。家族の状況を知っているにも関わらず、「よかったね」と言われたその言葉で吹っ切れたんです。

お父さんも病み上がりで体調が悪かったし、そもそも経営がよくなったとかいう以前に、家族の仲が壊れてしまっては意味がないですからね。

それで、離農っていう道を選択しました。離農にあたっては、地域の皆様には迷惑をおかけしましたが。
その後、孫が生まれると、父との関係も良くなり、我が家にとっては最良の選択でした。

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ラジオパーソナリティに……「やるしかない!」

名古屋にいた頃も、牧場仕事をしていた頃も、脇目も振らずにただただ突っ走ってきたので、子どもが生まれて何もすることがないっていう状況が逆に新鮮でした。1人目の子育てが落ち着いたころ、カフェのアルバイト——のちに店長になり社会復帰をしていましたが、2人目を妊娠・出産した後に、子育てに専念しようと退職しました。

退職したとき、地域とのつながりがなくなってコミュニティが全部切り離されました。本人よりも周りの皆さんがその状況を心配してくださって。主人の会社の上司の方からの紹介で、中標津町の伝成館(※)で新しく「あさ市」を始めるから、そこで「野菜を出さないかい」って声を掛けてもらったんです。もともと実家の家庭菜園で、自分たちで食べる野菜くらいは自分たちで作ろうっていう感じで、家族みんなで作っていたのをブログで発信していて。それを見てくださったんです。もともと農家ですから、土地が普通の家よりあって、結構量が採れるんです。友だちに配ってあるいたりもしていたんですけど、せっかく売れるんだったらここで売ってみようかっていうことで、出入りするようになりました。

(※)農事試験場の旧庁舎を保存し、まちづくり運動の拠点としている建物。

そして、2012年の8月ですね、中標津町の町議会議員選挙がありました。そのときに、私が歌手を目指していたっていうことを知っていた、とある町議員候補の方から「ウグイス嬢をやってみない?」って声を掛けてもらったんです。3人目の子どもを生んだばっかりだったけど、1週間だけということで、お受けしたのですが、その候補の方が、FMはなで「町民パーソナリティ」をやっていて、週末の番組でしゃべっていた人だったんです。結果、その方は町議に当選し、その枠が空きました、と。町民の方々で作っていた番組だったので、その方たちの中から、「美和ちゃんに後任を」と声を掛けていただきまして。

ラジオは、子どもの頃から牛舎でずっとかかっていたので、聞いているのが当たり前でしたけど、そこに出たいと思ったことはなかったんですね。ウグイス嬢も、「あ、おもしろそう」って飛びついただけで、その候補者の方がパーソナリティをやっていることも知らなかったんです。FMはな自体、聞いたことも全然……あることすら知らなかったくらいですから。

それなのに、そんな話がきて、「私でいいんですか!?」みたいな。嬉しい気持ちが半分、あと半分は一大事だなって思いましたね。自分の置かれている現状は甘くない、本当に大変なことを引き受けちゃったな……と。当時、牧場で搾乳のパートもやっていたんですよ。パーソナリティなんて片手間でできるようなものじゃないっていうのがわかっていたし、そもそも素人だし。一度はお断りしたのですがそれでも、社長から「いいから、やってみな」って言われて。尻ごみをしつつも、なんかやるしかないと思い引き受けました。

いろんな人と知り会い、つながるのがすごく楽しい!

当初は、町民パーソナリティですから、まず週1回か2回、ディレクターの方に原稿を作ってもらって、私はそれを読むだけでした。それを半年間くらい続けたのですが、それがとても楽しくて仕方ありませんでした。

基本目立ちたがりなんですよね。最初はへったくそだのなんだのって言われながらも、いろんな人と知り合えたり、つながったりするのがすごく楽しかったです。

当時の会社の事情っていうのもいろいろあって、そのうち社員になり、担当番組がどんどん増え……。最大で7個くらい番組を持っていて、これはもう1人では手に負えないなって思った瞬間に、中標津町民の皆さんに人に声を掛けたんです。そしたら、2008年のFMはなの立ち上げ当時から気に掛けてくれている人たちとつながることができました。「手伝うよ」とか「こういう番組だったらできるけど」っていう感じで、いろんな人に助けてもらいました。

私は、外部から人を連れてくるのが得意なんです。どっちかっていうと人懐っこい性格なんで、人にあまり警戒心を持たない。なので、新しい誰かに会うことがとっても楽しくて、番組でも週に1回必ず誰かを連れてくるっていうのを自分に課しています。去年の時点で、延べ人数でもう600とか700人くらいは会っていると思います。

ラジオに出てもらう方には、とにかく気軽に楽しんでもらおうと思ってしゃべっていますね。あとは、出てもらう前までのコミュニケーションをすごく大事にしています。事前に会って話をしておくとか、その人がイベントをやっているのだったら、ちょっと足を運んで見ておくとか。コミュニケーションがとれていれば、番組内でちょっととぼけたようなことを言っても、嫌な気持ちにならないですよね。私がいつも思っているのは、今は「FMはなのパーソナリティ・橋本美和」として皆さんと接することが多いんですけど、この肩書が外れても「美和ちゃんならいいよ」って言ってもらえるような、そんな人間関係を作っていけたらいいなということなんです。

あるものをいかに生かして、自分のオリジナルに持っていくか。

5年後も、たぶんパーソナリティをやっていると思いますよ。今の仕事をしていて4年たちますが、いやだなとか辞めたいなとか思ったことがないんですね。「水を得た魚」と言いますか、本当に毎日人と会ってしゃべっていることが楽しくて。天職だって思っています。もちろん悩むこともあるし苦しいこともあるし、怒られることもたくさんあるんですけど、その分、自分を成長させてくれるところです。これまでは、見えない何かの力に導かれてここにいる……という感覚でやってきましたが、最近やっと、「こういうパーソナリティになりたい」っていう自我が出てきましたね。どういうパーソナリティになりたいかですか?

……なんだろう?(笑)。本当はまだ模索中ですけど、聞いている人がここちよくなってほしい。また、美和ちゃんの声が聴きたい。と思ってもらえるような、Miwa中毒になってもらえたらいいなぁと(冗談です)。ラジオは、パーソナル——人間性——がそのまま出ますから。私は、どこにいても、どの仕事をしていても、どんなことをしていても、たぶんなんとかやっていけるタイプなんです。何でも、なんとかしちゃう。今あるものをいかに生かして、現状を最良に変えていくか。「あれがないとダメ」「これがないと何もできない」ではなく、「これとこれがここにはあるから、こうすると良くなる」というように、「ないからできない」ではなく、「あるから大丈夫」をポリシーにしています。

子どもは今、男の子が3人います。みんなやんちゃで、母はいつも怒っていますよ(笑)。子育てって、親の思う通りになんてならないんですよね。その子がどう育つかっていうのは、その子自身が決めていくものだと思っています。子どもたちの好きなようにやってくれればいいかなって。親の理想を子に託す方もいますが、私が思う親の役目は、いろ〜んな所に連れて行って、様々な体験を小さなうちから経験させることが親の仕事だと思うのです。

そして、私が育てるのではなく、私たち家族にかかわる全ての皆さんが一緒に子育てしてくれているんだって思っています。1人で全部やろうなんて無理があるんだと。そう思えるようになったのは、自分がパーソナリティとしていろんな人に会う中で、「今、ここに来るまでにあなたはどんなことを歩んできたんですか」って聞くと、「海外に行っていた」とか「移住して牧場を始めた」とか、いろんな話や価値観、考え方に接してきたからかもしれません。もちろん、ラジオのスタジオにも子どもたちを連れて行くこともあります。

同じ環境下にいるのに、3とも全然違う性格。将来の選択肢を彼らが見つけられるように、バックアップしていきたいです。

2016年8月22日収録
インタビュー:廣田洋一
テキスト・撮影:佐藤陽子
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