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前田利彦:田舎で都会暮らし!? いいとこどりの生活を満喫。

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前田利彦

プロフィール 前田利彦 / 50歳 / 別海町出身 / 1994年Uターン移住 / 有限会社マグ 代表取締役

バブル期の東京で働いたデザイナー時代。

昭和41年2月17日生まれです。一人っ子で、生まれも育ちも別海町。高校まで別海町にいました。当時、高校のクラスは2クラスまでで、僕が入る年に3クラスになったんです。そのおかげ僕はギリギリで滑りこめたんですけど(笑)。

子供の頃は、当時建設中だった老人ホームのそばを流れていた古川で魚を採ったり、いかだに乗って遊びました。あとは公園に先輩・後輩と集まってビー玉したり野球したり、町中で遊んでましたね。

高校の頃にグラフィックデザインの仕事に興味を持って、札幌のデザイン専門学校に進学しました。「オシャレだしかっこいいな!」って単純明快な理由です(笑)。いろいろ事情があって、当初は札幌で就職するつもりだったんですが、実習だけは憧れの「日本のデザインの本場、東京」へ行きました。実習も終わり札幌で就職!……のはずが、実習先だった東京のデザイン会社から声をかけて頂き、東京で働くことになりました。

東京生活は楽しかったですよ~! 当時はバブル全盛ですし、会社は六本木だし(笑)。デザイン会社ではポスター、新聞、パンフレットなど、広告の仕事を全部やりました。

退職、いまでも色濃く残る旅。

入社して6年が経った頃、退職を決めました。26歳の時でした。理由は、バックパッカーでヨーロッパを周りたかったからなんです。会社に退職の意志と理由を伝えたら「金出してやるから行ってこい!」と言ってくれたんですよ。バブルですよね(笑)。でもお金もらったら辞められなくなってしまう。それに、1人のデザイナーとして会社を渡り歩いて経験を積みたいとも思っていたんです。

まずパリに1ヶ月、その後スペイン、イタリア、オーストリア、ドイツ、スイスを1ヶ月くらいで周って、ロンドンに2週間、最後にまたパリに戻る3ヶ月間の旅でした。デザイナーとして本当に濃い旅でしたね。なんたってヨーロッパには「本物」がありますから。中でも、もう一度行きたいのはスペインのバルセロナ。建築家の『アントニオ・ガウディー』の作品に感動しました。特にサグラダ・ファミリアは圧巻でした。4年前に再訪した時は、当時からびっくりするくらい伸びていて、「増えてる!」って驚いたのを覚えています。この時は家族を連れて行きました。子供達に早いうちから「本物」を見せてあげたくて。

スペインは食べ物も味付けが日本人好みだと思うし、またいつか絶対に行きたいです。スパニッシュ系の女の子もかわいかったですしね(笑)。

帰国〜地元へUターン。

当初は帰国した後、そのまま地元へ戻り、実家の旅館『ビジネスホテル寿』と居酒屋『おふくろ』を継ぐ予定だったんです。出国前に父が1度倒れていましたし。だからバックパッカーは自由に動ける期間の〆でもあったんです。

でもいざ帰国して地元へ戻るって段階になると……やっぱり東京が名残り惜しく思えてきたんですよね(笑)。最後のわがままとして、両親に「もう1年だけ東京でデザイナーとして働かせてくれ」と頼んで、某出版社の子会社で働きました。

「後々、札幌で仕事に就いて両親を呼ぼう」と考えたこともあったんです。でもその頃にはバブルが弾けてデザイン系は中堅会社が倒産するなど苦しくなってきた。加えて「自分で何かをやりたい」と思ったときに、経営を継ぐ店もあるし、別海町に帰った方が自分にとって良いと思えたんです。僕の場合「実家を継ぐ」ってベースがあったし、本当のゼロスタートではない。だからこそ帰って来れたのかなぁと思うことはありますね。

将来的に子育ての面でも、別海町が良いと思えたんです。東京では、たとえば子供が自転車で遊ぶにも公園まで運んであげなきゃならないんですよ。僕からしたら「なんでそんな面倒なこと!あり得ないでしょ!」って感じで(笑)。別海町は車が頻繁に行き交う事もないし、道も広いから子供が比較的自由に遊べる。それに子供と過ごす時間を多くとれますからね。

いろんな理由が絡み合って、8年間過ごした東京から僕は地元へ戻ってきたんです。

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地元でチャレンジ、経営者へ。

地元に戻り、「さぁ頑張るぞ!」と意気込んでいた中で、少し頭を落ち着かせる出来事がありました。北海道東方沖地震(1994年10月)です。僕が帰郷して4ヶ月がたった頃でした。

地震の影響で予定していた店の工事は延期。その期間にいろいろ考えたんです。これまで『おふくろ』は母が経営していた「母の店」だった分、主に来るお客さんは「母のお客さん」。でもこれからは「自分の店」。

考えていく中で、「自分が経営するのだから、自分がやりたいと思う店にしないでどうするんだ!」、こう思ったんです。実家を継ぐにあたって東京時代にカクテルの勉強はしていましたし、僕自身洋酒が大好き。

そこで僕が経営する店はショットバーすると決めました。バーの名前は、全世界誰もが知っている単語で、お年寄りもタバコのピースでピンと来ると思い『PEACE』と名付けました。

バーで出すお酒はカクテルや洋酒がメイン。僕、バーボンが好きなんですけど、当時この辺りでバーボン置いてる店なんて無かったんです。どこ行っても焼酎とかビール。その中で僕が作りたいもの、好きなものとして35種類のカクテルやたくさんの洋酒を出したんですから、オープンした当時はすごかったですよ(笑)。

自分の経営になってから客層が若くなりましたね。内装も若者が好きそうな雰囲気になりましたし、母親時代とは正反対。カラオケは置かなかったので、「飲んで歌って」な人が多いこの町では残念がられる事もありましたけど(笑)。

それから2004年までの約10年間、休みなしでPEACEとビジネスホテル寿を経営しました。

決断、こだわり、MAG. HOUSE。

実家を継ぎ10年が経った頃、建物の老朽化が進んでいたので、移転して内装も一新することにしました。ただ、移転するにあたり買うことにした土地は上物付き。さらに敷地を広げる為に隣の住民に移動してもらう必要もあった。土地代、解体費用、移転建設費などの他、また一からホテル経営を始めるわけですから、大きな覚悟を持って臨みました。

ホテルの名前は『MAG. HOUSE』。深い意味はないんですが、僕、ミリタリーが好きで。マグナム銃の「MAG」と僕のあだ名『MAGEN』(マゲン)」が由来です。

「また来たい」と思ってもらえるホテルにしたくて内装、インテリアには僕達なりのこだわりを散りばめています。心地良い空間って、さりげないデザインが人に届くから感じてもらえることだと思うんですね。グラス1つとっても、形・大きさが少し変わるだけで見える景色も変わる。内装にもそういった、「さりげなさ」で成立する心地良さを、デザイナーとしての目で判断しながら、空間に散りばめています。

毎年、インテリアやオリジナルのポストカードを更新して、来る方を飽きさせない工夫もしています。デザイナーとして培ったCI(コーポレート・アイデンティティー)が、この仕事でも活きていますね。

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新たな展開、デザインとアスリート。

MAG. HOUSEでは、スポーツ合宿の受け入れもやっています。オープンする前に某有名化粧品会社のマラソン部の方から頂いた問い合わせがきっかけです。当時はホテル経営もこれからだったし、食事も「寿」時代に一般的な家庭料理を提供していた程度。アスリート飯は作ったこともなかったので、もちろん不安がよぎりました。でも、経営を始めるにあたって覚悟はできていた。新たなチャレンジをすることに決めたんです。

アスリートの食事は栄養バランスだけでなく、食欲をそそる盛り付けや色合いなどが大切。ここでもデザイナーとしての技量が発揮されるところ。特に、女性アスリートが運動後も食べたくなる料理の盛り付けを考える時はデザイナー魂に火が点きますね。

おかげさまで、今では毎年いろいろな実業団の方々とお付き合いさせて頂けています。監督さんが、新しいチームを率いてまた来てくださることも。

地元でチャレンジを続けた結果、長い間お客さんに喜んで頂けているこの仕事を誇りに思っています。

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写真提供:MAG. HOUSE

自分の経験を、子の未来へ。

家族は、僕と家内と二人の娘、父、そして犬一匹です。

家内は専門学生の頃からの友達で、仲良しグループの一人だったんです。卒業後も交流があって、別海町で経営を始めた頃もよく遊びにきてくれてました。

一気に距離が縮んだのは、実は地震がきっかけなんです。家内は当時大阪に住んでいたので、阪神大震災で被災。それで安否の連絡を取り合ったことで、関係が発展しました。

最終的にこっちに来たのは、ん~、魅力的に写ったんじゃないですかね?自然の中で、好きな商売をやって、っていうのが。で、一緒になって子供もできて……このくらいにしときますね(笑)。

上の娘は自ら行動を起こして切り込んでいくタイプです。小学生の頃に、北海道新聞主催の「子供新聞」に興味を持って応募したんです。自分から積極的にインタビューにも出向いていました。バイオマスや北方領土問題、フィリピン人農業ヘルパーについてなど、地域の事柄をテーマに記事を書いて、賞を頂いたこともあります。昔から、自分で突き進んでいく強さを持った子供でした。

下の娘は英語が得意で。幼い頃から洋楽が好きで、英語に対する興味は昔から持っていたみたいですね。小学生の頃には僕の叔父が使っていた40年前の教材で、一日二時間以上の勉強を週五日、そして叔父にSkypeでの授業をしてもらっていました。

あと、自宅に近所のフィリピン人講師を呼んで「子供の英会話教室」をやったんです。授業外での雑談も、全部日本語というわけにはいかないから、自然と英語を話すようになる。発音はそうやって身に付けたみたいです。結果的に本人の努力の甲斐あって、当時中学一年で英検2級を取得するまでになりました。

そうやって一所懸命頑張る姿を見ていたので、我が子ながら二人を尊敬しています。

ホテルには多数のトップアスリートが合宿で来るので、そういう人達と話したことも娘二人に良い影響を与えたのかな。都会に出たことで広がった視野や価値観がこういった環境を与えられたという形でも活きているのかなぁと思います。

娘らにも地元から出て価値観・視野を広げて欲しいと思って、町外の高校へ通う頃になると、二人とも女子寮へ入れました。僕としては戻ってこないつもりで出しました。あとは本人達次第。そして良い環境で育って、良い学校・会社へ入って、いずれ良い人に出会って。「僕が地元を出て経験したことが、二人の娘にとっての花嫁道具になれば」と思っています。

愛犬だって仕事のパートナー。

たまに空いた時間が取れる日は、バイク仲間とツーリングに出かけたりします。経営が忙しく、休みがほとんど無いので日帰りですが(笑)。ドライブはこの辺り(道東)だと知床、弟子屈、阿寒、羅臼がオススメですね。

あ、最近PS4を買いました!前から欲しかったんですけど封印してて……。基本的に店の中にいなきゃならないので、仕事が一段落するのを見計らって『GTA5』をプレイしてます(笑)。

自然と触れ合うことも楽しいですよ。愛犬「バズ」と散歩で山の中に入るとシカ、キツネはもちろん、オジロワシ、オオワシなどの野鳥がいっぱい。晴れた日はカメラを持って出かけるのが楽しくなります。撮った写真はポストカードやインテリアとしても使ってるんです。モデルはもちろん、愛犬バズです。

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IMG_1618写真提供(下段):MAG. HOUSE

外を知り、中を知る。

地元を出て都会を経験すると、田舎との違いはやっぱり見えてきますね。特に人情の面でカルチャーショックを受けた出来事が2つありました。

1つ目は、東京にいた頃近所で男同士が血だらけの喧嘩してて。それを止めて、落ち着かせようとうちまで連れて行ったら包丁らしき物で襲い掛かってきたことが(苦笑)。

2つ目は職を失ったって男に話しかけられたんです。2日間飲まず食わずだと聞いて、少し助けてあげようとクオカードをあげたら、何日か後にまた家に来たんです。今度は面接があるから靴を譲ってくれって言うんですよ(笑)。その時の善意でやったことなのにそこまでガツガツ頼られちゃったことが逆にショックでしたね……。そういう事が別海にはないんで。「田舎では当たり前にある人情とか優しさが、こんな結果になっちゃうんだなぁ」って。ちょっと寂しい気持ちになりましたね。都会と田舎の違いを表す象徴的な出来事でした。

近くて温かい繋がり。

都会の知り合いには「人との距離が近すぎてやり辛かったりしない?」と聞かれますが、とんでもない。例えば病院なんかに行くと、子供つながりで職員の方が知り合いだったり、PEACEに来てくれたりするんです。だから安心できるんですよ。気を利かせて何かやってくれたり、すぐ相談できたり連絡できますからね。

「都会から田舎に戻ると不便に感じない?」と聞かれても、特に無いです。中標津空港まで車で30分だし、東京にだってお金と時間があればスイスイ行けちゃう。東京で空港から30分圏内に住んでる人なんてそんなにいないでしょ?(笑)

田舎でも、居場所は作れる。

「5年後、10年後はどうするの?」って良く聞かれるんですよ。10年後は60歳ですね。なにやってるかなぁ。娘を追っかけて海外にいたりして(笑)。というのも「住めば都」じゃないですけど、どこでも自分の居場所は作れると思うんです。

田舎にいるから外との繋がりが無いなんてこともない。こういう商売をやっているから、道外からも人は来るし、いろんな考えや経験を持った人と触れ合える。田舎にいたって外と繋がることはできるんです。

あとは、一度慣れ親しんだ土地から離れて、新しい場所でたくさんのことを身に付けるのも大切なこと。そして帰ってきたら、それをいろんな人と共有すること。そうやって人との繋がりを作っていくことで、たとえ田舎でも自分の居場所は作れる。どこで過ごすにもやっぱり「人」・「繋がり」が大事じゃないかな。

僕も、一度別海町から離れて外の世界に触れた人間。これから移住して来る人の為にもPEACEとMAG. HOUSEを通して、知識や経験をこの町に還元して、繋がりを作る手助けをしていきたいと思っています。

2016年4月17日収録
インタビュー:廣田洋一
テキスト:倉持龍太郎
撮影:(クレジットがないもの)NAGI GRAPHICS

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